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十字架と自分との関係?  (クリスチャン M さんより)

イースター

私は2004年の春、イースター(復活祭)に洗礼を受けました。洗礼を受けるということはどういうことでしょうか?おそらく、外から見ていてキリスト教の中でもっとも良く判らないところかもしれません。何を隠そう、私自身も洗礼を受ける意味がどこにあるのか、全くわからず、悩んでいました。

自分が神様を信じているのであれば、形式は問題ないのではないか?何もめんどくさい洗礼など受けなくても、自分はしっかりと神様のほうを見ているのではないか?クリスチャンになったからといって、教会にいる全員が救われるわけが無いじゃないか、と。

しかし、ここに大きな落とし穴があります。

上に述べてきたような姿勢の根本には、自分が信じるという気持ちがかなりの部分含まれています。神様の存在を自分が認めて納得してから、全てを理解してから洗礼を受けようと当時の私は思っていたのです。

なぜ何千年も前の一人の人間の死と復活が今の自分に関連するのか?

イースター

しかし、そのような自分の姿勢を徹底的に打ち砕く経験を大学の三年生のときに体験しました。自分の力の到底及ばないことがこの世には沢山存在しており、強く信じ、頼っていた「自分の力」など微々たるものだ、と。これは私にとって、とても重大な危機でした。自分の支えとなっていたもの(自尊心、もしくはプライドと呼べるものかもしれません)が、いとも簡単に崩れ落ちたのです。

私はミッション系の学校に通っていたので、「宗教」という授業の中でキリスト教について知ってはいました。歴史でも「イエスキリストが生まれ、死に、復活し、キリスト教が広まった」、「キリスト教の教義の違いに端を発し様々な戦争や宗教改革が起こった」などということを学びます。

それは自分が「知識として」知っていることです。一般的な人に比べればそのような知識に触れる機会は多かったとしても、それは単なる知識に過ぎません。それは遠い昔のことであり、今を生きる自分にとってなんら変化をもたらすものでは有りませんでした。何千年も前に生きていた一人の人間の死が自分に何か関わりを持っているなんて思っても居なかったのです。

十字架による救いとは?

しかし、暗闇の最中にあって自分を見失っているところに、ふと、自分の気持ちが十字架に向けさせられているのを感じました。学校に通っているときには義務的にやらされているだけだったお祈りや讃美歌が自分の気持ちの中に染み入るように入ってきているのを感じたのです。心の奥底に、何千年前に磔にされたイエス・キリストという存在が現れてきたのです。それは自分が見ようとしたからではなく、むしろ脱力する中で、自然と身体が十字架のほうを向けさせられたという表現が正しいのかもしれません(説明しがたいのですが・・・)。

そして、知識ではなく、身体がそれを理解することになります。神様の愛は自分があさっての方向を向いているときにも私に常に降り注いでいたのだと思うと、そこに自分の思いが差し挟まれる余地など全くありません。ただ、受けるだけなのです。神様に正面から向き合って対話・交流していく中で、恵みを受けていけばいい。そして、出来るときにはきちんと応答していけばいい。救いとは正にそのような性質のものではないでしょうか。そう思うと、自分が理解しなければ洗礼など受けない、という以前までの考え方がとても馬鹿らしく思えるようになりました。「安心して、神様に委ねていけばいい」「神様は自分のことを見放すことは無い」そんな気持ちで毎日を過ごしていると、肩から力が抜けて、とても楽に過ごせるのです。

復活とは?

友人の中に、「自分の罪は認めるし、イエス・キリストがそのために磔になったことも判る。でも、復活する必要は無いのではないか」という疑問を持つ人は多く居ます。確かに、磔になることはとても恐ろしいことですが、誰にでも(?)できます。しかし、復活となると話は別です。我々の知っている世界の中ではそのようなことが起こるはずも無いからです。しかし、私が洗礼を受けた「イースター」は、イエス・キリストの復活を祝う日です。「復活」はキリスト教ときっても切り離せないのです。それはなぜでしょうか?

洗礼を受けるとき、キリスト教では「肉に死んで霊に生きる」という言い方をします。自分自身も一度死に、生まれ変わるのです。今までの神様に背を向けて生きる生き方から、きちんと神様に向き合って生きる生き方へと変わることを意味します。そして、復活は聖書に細かく記されています。それにもかかわらず、それを受け止めようとせず、自分で納得できるところだけつまみ食いのように理解していっていいのでしょうか?私は違うと思います。その行為は神の愛を受け止めることとは全く逆の方向を向いていることになると考えます。なぜなら、そのような考え方の根本にあるのはやはり自分自身であり、自分の理解だからです。神の愛とは自分の認識をはるかに超えたところにあります。そして、それが復活という形で完成されるというのであれば、それはそれとして受け入れるしかないのです。これは考えることを止めるということを意味するわけでは有りません日々の歩みの中で、自分自身の「我」との戦いは常に繰り広げられます。しかし、復活があるからこそ今の自分がここにいるのです。そのことだけは忘れてはならないと思います。

生活の中で、どのように神の言葉に向き合っていくか。

少し、話が複雑になってきてしまいました。しかし、私が述べたいことはとてもシンプルなものです。日々の生活の中で大事なことは、聖書の言葉にきちんと耳を傾けつつ、今与えられている命を精一杯生きる、ということに尽きます。一日一日が神様によって与えられている恵みであり、この身体も、心臓の鼓動も、周りの環境も全て神様が下さっているもの。そう思うことが、クリスチャンとしての歩みの第一歩であり、根幹であると私は思っています。なにか難しいことをしなければならないわけでもないし、「いい人間」になる必要もありません。私を「私のまま」で受け止めてくれる存在が、神様なのです。何か特別な人にだけ、優秀な人にだけ与えられる特権のようなものでは有りません。その扉はいつも開いているからです。

もし、何か人生のことでつまずきを覚え、悩んでいる方がいらっしゃったら、教会に一度足を運んでみてください。すぐに解決の方法を見つけることなど到底出来ませんが、その苦しみをみんなで担っていく場所が教会です。自分では何もできない弱いもの(羊に形容されます)たちが、群れを作って、ただ羊飼いである我が主、イエス・ キリストを慕って一緒に歩んでいく。そんな教会を形成するべく、群れの中の一匹として、日々神様の言葉に耳を傾ける毎日です。

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