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「受難、十字架、復活する」という一連の物語から  (クリスチャン 山本 義人さんより)

イースター

「受難を経て、十字架にかけられて死に至り、そして復活する」という一連の物語。私は、数ある聖書の物語の中で、この物語が一番好きです。

ペトロは、強い信念と自信に満ちた弟子でした。イエスに離反を予告された際に、彼は、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と言い切ります。

しかし、そんな強い信念や自信さえも、自分ではどうすることも出来ない困難のもとでは容易に崩れ去ってしまいます。

ペトロはイエスの弟子だということがばれそうになった時、自分に火の粉が降りかかるのを恐れる余り、「イエスなんて知らないって言えば、君は助かる。」という誘惑に負けて、あっさりと「イエスなんて知らない」と言い放ちます。

しかも、3回も。しかし、イエスは彼を見捨てません。ペトロが自分を裏切ると分かっていても、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」と伝えて、その深い愛で彼を見守り続けます。そして、イエスは、私たちの身代わりとなって、十字架上の死を送ります。そして、神はイエスを復活させます。

自分に余裕がある時には綺麗ごとを言い張るが、いざ絶望に駆られると大切な人を裏切ってでも助かりたいという誘惑に駆られる人間の弱さ。そんな弱い人間を見放さずに、見守り続ける「愛」の存在。

「愛」とは、その対象となる人の身代わりになるということ、「愛」の実践には常に苦しみが伴うということ。救い様の無いほど愚かで弱い人間を照らし続ける光の存在。わずか数ページの中に、そのどれか一つだけをとっても長編小説が書けそうなテーマが盛り込まれています。

そして、私は、この物語の中に、「クリスチャンとはどういう人たちか」という問に答えるに当たってのヒントがあると考えています。

さて、クリスチャンとはどういう人たちなのでしょうか。開き直る訳ではありませんが、私は、「クリスチャンになる」ということは、どんなことにもたじろがない「完全無欠な人間になる」ということでは決してないと思っています。

私たちにはイエスを裏切ったペトロを非難することは出来ません。私たちも、彼と同じ立場に立たされると、彼同様にイエスを裏切るでしょう。むしろ、彼と同じ状況のもとで、「イエスを裏切ってでも助かりたい!」という誘惑に駆られない人なんていないのではないでしょうか。

つらい状況にあって誘惑に陥ってしまうというのは、弱い人間としてはどうすることも出来ないことです。クリスチャンだからといって、誘惑に駆られないことはないのです。この点でクリスチャンとそれ以外の人とで違いはありません。クリスチャンも、人間である以上は、弱いのです。

では、クリスチャンとそれ以外の人との違いはどこにあるのでしょうか。イエスは、自分を裏切るペトロに「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」と伝え、彼をその深い愛をもって見守り続けます。

そして、弱くて愚かな人間のために、愛ゆえに身代わりとなって十字架刑を受けます。そして、神様も、私たち人間の身代わりとなったイエスを見捨てずに、彼を復活させます。イエスも神様も、決して我々を見捨てないのです。

困難は自分ひとりで克服すべきものではない。絶望のさなかにあっても、自分を見守り続けてくれている愛がある。そういうことに気付いている点、そして、「自分は一人ではない」と実感出来ることは本当に大切なことだと考えている点にこそクリスチャンとそれ以外の人との違いがあると思います。

ただ、残念なことに、クリスチャンといえども(少なくとも私は)、常に「自分は一人ではない」と意識出来ているわけではありません。特に、何をするにも時間に追われる現代においては、「自分は一人ではない」と感じながら日常生活は送ることは難しいです。

そして、「自分は一人ではない」ということを忘れて、困難な課題が目の前にあるときでも、「どうにかして自分の力でそれを解決しなければならない、一人で何も出来ないと周りから駄目なやつだと思われてしまう」というプレッシャーに押しつぶされそうになります。

そういう時に、教会に行き、神様を讃美することで、「自分は一人ではない」ということを思い出すことが出来ます。そして、困難に合い苦しむのは人間として当然で、そういう困難を一人で解決する必要はない、ということを再認識させられます。そのために、私たちクリスチャンは教会に行くのだと思います。

クリスチャンが祈るのも同じ様な理由からではないでしょうか。自分では解決できない困難に出くわしたときの最後の砦として神様に祈れば良いと考えている人が多いように感じます。しかし、お祈りをすれば奇跡が起こる訳ではありません。

祈るときには、いわゆる「ご利益」を求めることが目的であってはならないと思います。祈りとは、神様との会話です。「今日も、私を見守ってくださっていますよね?」、「自分ではどうしようもない状況に置かれていますが、私は一人ではないですよね?」という神様への呼びかけ。これこそが、祈りだと思います。教会に行けない時でも祈ることによって、「自分は一人ではない」と思い出すことが出来るのです。

あまりキリスト教に縁が無い人にとっては、以上述べたことは馬鹿馬鹿しく思えるかもしれません。一般的に、困難を一人で解決できる人の方がかっこ良いし、「自分は一人ではない」と考えたからといって、それはあくまで精神的な問題に過ぎず、現実の問題解決には何の役にも立たないからです。

それにも関わらず、「自分は弱くても良い。そして自分は一人ではない。」ということを認識し、その思いを大切にするのがクリスチャンです。そして、私は、そういう風に考えるクリスチャンの発想は決して無駄なものではないと思います。

世の中には、不条理で自分の力では解決出来ない問題が沢山あります。そして、そうした問題は、自分がいかに努力しても解決されないままの状態で終わることも多いと思います。しかし、人は自分の意思で人生の幕を閉じることは出来ないのですから、問題が解決されないままの状況でも生き続けなければなりません。

そうした時に、クリスチャンは、問題を解決出来ないからといって自分を責めることなく、解決出来ないかもしれないけれど一人ではないから立ち向かってみようと思えます。そうしたところにクリスチャンの魅力があるのではないでしょうか。

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