美しい歌声から思こと

K.Gさんより

私は音楽が大好きです。 特に最近はオペラをよくみるようになりました。

昨年テレビでザルツブルグ聖霊降臨祭音楽祭の様子が放映されました。

何日間か行われる音楽祭なのですが、私がその時見たのは ヘンデル作曲の「エジプトのジュリアスシーザー」というオペラでした。

そのオペラには男性なのにソプラノやメゾソプラノの高音域を歌う カウンターテナーの方が4名でていました。

カウンターテナーのでているオペラを初めてみたので どうして男性が女性の声で歌うのか不思議に思いました。

調べてみると、当時、教会内で女性は沈黙を保たなくてはならなかったため、 女性が歌を歌うことは許されなかったということでした。

よって、歌手は変声期前の男声(現在のボーイ・ソプラノに近い形態)で構成されていました。

しかし、また教会内で行う演劇においても女性が参加することができず、少年では役柄の関係や声量が足りないことから、変声期前の声質を保った男性が必要とされた。そのために変声期を迎える前の少年に去勢を行い、変声期を迎えないようにさせ、カストラートを誕生させました。

聖書の第一コリント14章34、35にこうありました。

婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。

律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。

多分、この箇所を当時の人々は忠実に守っていたために教会内で女性が歌うことができなかったと思われます。神への信仰を何とかしてあらわしたかったからなのかもしれません。

カストラートは14世紀ころ登場して1650〜1750年にピークを迎え毎年4000人以上の11歳の男子が去勢されたという記録があるそうです。

ちょうどヘンデルが生きていた時代はカストラートが最盛期を迎えていました。それなのでヘンデルのオペラには女性の高音域に男性が当てられていたのだと分かりました。

カストラートは成功すると2 - 3ヶ月公演するだけでその国の首相の年俸を超えたそうです。

多くの少年が去勢手術を受けたようですが当時の医療体制の未熟さや衛生環境などにより、去勢手術を受けた多くの男子の命が感染症などで失われました。手術を受けたものの歌手としての素養のない者も多く、親の欲求のために無駄に去勢されてしまったといってもいいような男子も多かったといわれています。

映画「カストラート」を見ることで、カストラートとしてつくられた者の苦悩を知りました。

彼は子孫を残すこともでない。男でも女でもない。歌うことでしか自分の価値を見出すことができない。ホルモンのバランスが崩れ、精神的にも不安定だった。彼らの美しい歌声はまさに自らを削って生み出された命の結晶なのだと思いました。神のために捧げられた人なのだと思いました。

カストラートはナポレオンが禁止令を出した後も廃れることはなくオペラなどのブームが過ぎ去った後もローマのカトリック教会では継続し19世紀半ばには時のローマ教皇の命令により人道的見地から禁止され廃れていきました。現在カストラートは存在しません。現在は女性が男装して歌うか、変声期を過ぎ成人した男性で、訓練されたファルセット(いわゆる裏声)を用いて、女声のアルト、メゾ・ソプラノの声域を歌うカウンターテナーによって歌われています。

この聖書の箇所が聖書として適さないという理由で削除されていたら 多くの少年たちの悲しみや苦しみ、犠牲はなかったかもしれません。

しかし、カストラートのために書かれた類い稀な美しい崇高な音楽も生まれなかったでしょう。

かの有名なヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」、モーツァルトの「エクスルターテ・ユビラーテ」などもカストラートのために作られた曲です。

この聖書の箇所のために神と人との間には多くの会話があったのだと思います。多くの人々の喜びや悲しみがこの聖句には刻み込まれているのです。何よりも、神と人間との間に取り交わされた多くの祈りを忘れてはならないのだと思います。現代の私たちが失いかけている、当時の人々のひたむきで一途な神への信仰を思い起こすべきところなのかもしれません。

聖書はどんな時代においても、人を動かす強い力を持っているのだと思います。

良い方にも悪い方にも人を導くものだと思いました。

以前特別伝導礼拝でお話くださった岡野先生の著書「イエスはなぜわがままなのか」の中で先生は以下のように書かれています。

「聖書には過激な言葉が散見される、ある意味でとても危険な書物なのです。ここにはそのまま受け取るとつまずきの元となる言葉が各所に散りばめられています。ですから私は、聖書を単なる読み物としてならともかく信仰の書として一人だけで読むのは危険だと思っています。」

本当にその通りだと思います。一人で読んでいるといつの間にかとんでもないことになりかねないのです。正しい聖書の知識のある牧師のいる教会で読むのが望ましいのだと思いました。みなさんも危険な聖書の読み方をしてはいませんか?そんなときは弓町本郷教会へお越しくだし。