2013NHK 大河ドラマ 『八重の桜』を見て、東北のbreadさんと東京のwineちゃんから発信! 

『こんな大河ドラマをはじめて見た驚き』 ワインを飲みながらの座談会より

この大河ドラマは、2011年3月11日に東日本大震災が発生したことを受け、 東北復興を支援する内容のドラマへと方針を転換するとNHKから発表があり、 福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった八重の生涯を描く作品となったようですが、

キリスト教の内容が具体的に大河ドラマで紹介されることになるとは!? びっくりしましたね。

今の日本の状況と幕末の状況が似ているかもしれない。 地震でやり直す日本の今と 戊辰戦争でボロボロになった会津。日本が明治においてやり直すところが似ているような気がします。

全能の神さまと日本人との関係も知る機会なのかもしれませんね。

そうです!ピンチはチャンスです!日本が変わっていく時かもしれません。

幕末の日本の状況についても、『八重の桜』がきっかけに出版された本を読むと、キリスト教が異国からせまってくる様子が詳しく書かれていて改めて日本の歴史を振り返る機会が与えられましたよね。 それをテレビで見れるのは嬉しくて、ドラマを見ながらワインを飲んでいましたよ〜。

特にこれから洗礼のシーンや洗礼に至るまでの八重達の人生やその後の描き方では、日本人に与える影響はネットを見ない世代も含め大きいと思います。

『八重の桜』はドラマと連動して、『ただ今東北』をという旅番組もあり、大河ドラマの主人公が実際に動いて、今の東北に来てくれるというケースも驚き、嬉しいです。

『ただ今東北』では、何が印象深かったですか?

最初のひょっとこです。 東北の良さや、私もまだ知らなかった場所も紹介してくれたことが、嬉しかったです!東京に住むことにこだわっていた時期もありましたが、この番組から東北での生活を見直せました。

私はゴールデンウィークに、東京の江戸博物館で、『八重の桜』展をやっていたので見に行ってきたのですが、 ドラマの後半に出てくる会津から京都に移住した山本家のことや、山本覚馬が提出した官見についてや、新島襄のこと、そしてキリスト教との出会いが思った以上に詳しく展示されていて、 とても充実した展覧会で驚きました。 会津の戊辰戦争のこともかなり詳しく展示されていましたが、会津は、会津戦争・戊辰戦争後は平和になったのですか?

国破れて山河ありの格言の通り、会津戦争・戊辰戦争の頃よりは平和になったと思います。

ところで、今日は東北の最寄りの教会に行ってきました。9名で9割が高齢者ですが、これからのこのドラマは話題になっているので、 教会の存在を知っていってもらうために大きいような気がしました。 それから、今の『八重の桜』のドラマもいずれ史の一部となると思います。 神のご意志を垣間見れるのか楽しみです。 八重の桜の頃、0だった日本のクリスチャンや教会が百五十年で、百万人や東京にも秋田にもどのようにして在るようになったか歴史が知りたくなりました。

それは楽しみですね。ところで 東北の隠れキリスタンは、どこからやってきて、何故東北に住んでいるのですか?

江戸時代は、秋田の場合関ヶ原の戦いの後に院内銀山に日本各国のキリシタン浪人などが集まり、殉教ないし隠れキリシタンとして土着します。

その散りばり方があって、今の東北のキリスト教があるとは、歴史は面白いですね。 あの時代、東北なら隠れて信仰できそうだと思いました?

きっと、法の管理が厳しいのは将軍のお膝元の江戸でした。 そこから、離れれば離れるほど役人の目をごまかせたのかもしれません。

聖書や、その代わりの書物はあったのでしょうか?

わかりません。 聖書の多くは幕府に没収焼却されています。また当時は文字を読めない人も多く原始キリスト教のように口伝えで行ったと推測されます。

それは、逆に凄いですね。 彼らの証は残ってないのですか?

文書以外であります!近所だと城跡にある小さな石碑の後ろに十字の証が!

近所だと城跡にある小さな石碑の後ろに十字の証が!
そして、お寺に供えられている観音様に似せた聖母マリアの像が!

十字架はキリストの受難の象徴また死に対する勝利のしるし、さらには復活の象徴として捉えられたもので、イエスは救い主であるということを人間が想起できるしるしでもあると思うのですが、 幕末では、どのように伝わってたのでしょうか?

幕末は、開港した横浜・函館・長崎などから各宗派の宣教師が入り、布教が開始され、各藩の中心に教会を作っていったと思います。 優れた牧師の養成も伝道を進める重要課題であり東北では帝大も作られた仙台や高校のあった弘前に各学院大学ができたのではないかと考えます。 はっきりは分かりませんが、伝道は教育もセットで行われ、秋田では聖霊短期大学があり、ホーリネス系の宣教師が入ったのかもしれません。 横手にカトリックの教会がありますが、そこに隠れキリシタンが合流した可能性もあります。
イエスの十字架の死がなければ、私達も当時の人も罪人のままで、神とともにあらず救われません。 その意味の深さが今もなお、十字として残っている。

『八重の桜』の前半は会津戦争でたくさんの人が死んでいくシーンがありましたが、どんな感想を持ちましたか?

そうですね。映像で重要な日本の歴史の一部をみることで、生と死、その重みが心を強く打ちました。

会津藩に関しては、今までの歴史書物から受けた印象から、『八重の桜』を見て変わった。そのことが衝撃的だったという感想を持った人がいましたが、その点では何か感想はありましたか?

あります。会津藩に関しては、忠義に生きた人々というプラスのイメージも新たに加わりました。 今までは、時流を見誤り、新政府に立てつくマイナスのイメージでした。 身分階級により、武士と農民と職人と商人では、藩内でも考えが違ったと思います。

第22回 「弟のかたき」からは、決戦の時が多く描かれましたが、こんな時でもインマヌエルの神、神が共にいると感じた場面はありますか?

ありますよ!
神がともにいると感じた場面(1)
八重の弟の死をいたみ祈る八重の親友へ寄りそうように、新撰組の隊員が祈りを申し出る姿。
神がともにいると感じた場面(2)
傷ついた兵士へ寄りそう八重に、「優しい手」と話した兵士の言葉と姿。
神がともにいると感じた場面(3)
極めつけは、青年の志が破れ牢獄で絶望する覚馬に(立ち上がれ)と下る神の啓示のような場面。 絶望や困難ななかでも、八重達とともに神はいてくれたと感じました。 第23回のタイトル「会津を救え」奥羽越後諸藩も会津を見捨てませんでした。

凄い感想ですね!深読みでも凄い!凄い!そんな風に見てる人もいるんですね!
あの悲惨な中では、八重の兄の山本覚馬は、命懸けで「官見」を書き、あとに同志社を創っていきますが、かつて天皇が住んでいた、京都の御所の前にキリスト教の学校ができるのは まさにミステリーでミスマッチなんですよ!
『八重の桜』をきっかけに日本の歴史を振り返って見れることは、これまで全く知らなかった面白い事実や出来事も見れて、嬉しいです!
第24回 「二本松少年隊の悲劇」では、戦争での残酷な子供の死も描かれましたね。ここにも神の働きはあるのかと思う人へのクリスチャンからのメッセージはありますか?

子どもの死の方が大人の死よりも戦争の悲惨さを人の心に刻み、戦争の抑止力によりなるとの神の計らいが感じられまいた。

悲惨な人生しかない人に、どうやって神はともにいると伝えたらいいと思います?

悲惨な人生の人には、マザーテレサのごとく離れず隣人として接する事です。 でもかなり困難なので祈りが必要です。

山本覚馬はあの悲惨な状況の中で、日本と世界の状況を考えて「官見」を書き、ドラマでのセリフは、 「新しい国の見取り図だ。俺の仲間たちが見ていた未来だ。国が敗れ、滅び、灰になっても、その中から、身一つで立ち上がる者がきっといる。生き残った俺たちが、やらねばなんねえ」 「新政府が捨てたこの都に、俺は文明の町を作る。武力に押し潰される事のねえ、強え町を」となっていましたが、 『八重の桜』でこの事を映像で伝えられた時、何か新しく知れたことはありましたか?

「言葉はここにある。ここにあるものはだれにも消せない」という覚馬の言葉が印象的でした。
どこにいても心にある聖書の言葉を想起しました。

そしてドラマでは、新選組がラストに絡んできた時がありましたが、こんな状況の時にも神が共にいると思います?

私は神はいたと思います。 理由は、印象に残った新撰組の一隊員が敗戦濃厚の中でも会津を見捨てないと宣言する場面です。

ところで、ドラマは嘘も描かれていると思うのですが、それを受け取ることに何を思いますか?

人間は不完全でも神に愛されています。 だから不完全な嘘が少しあるドラマでも面白みがあります。

『八重の桜』では、人間の生と死のギリギリのところ。無罪の人の死なども描かれてましたね。この事から何を受け取りました〜?

命の大事さです。 人の罪を背負い死罰を受けたイエスは無実だった姿を想起しました。広島のように復興は長い時を積み重ねて必ずなるものです。 きっと八重の一生を描く事で、その事が分かるのではないでしょうか?

山本覚馬が官見を書き、それを岩倉具視が海外に出る前に見たことは、何を語ってると思います〜?

管見には三権分立など明治政府の目指す西洋の仕組みが既に書かれていました。 それを旧体制の幕府を支援した会津藩士が書いたことに岩倉は山本覚馬に敬意を持っていたのではと思います。

ドラマ『八重の桜』は、佐川官兵衛が長く登場した回がありましたが、そのことから印象に残ったことはありましたか〜?

佐川は江戸での人切りの罪で切腹の所を藩主により助けられ、謹慎後、家老に昇格し会津の為に尽力する。 人は罪赦され活躍する場を得る事があると再認識できました。

『八重の桜』 28回 「自慢の娘」での八重や八重の父のセリフからは、何かグットきたセリフはありましか〜?

八重父「闇の中でも小さな穴が一つあれば光が一筋差し込んでくる」。
八重母「その穴をあけるのが八重の鉄砲かも」
八重は会津の窮地を救う光
八重が会津を救う姿に、イエスの姿が重なります。
女は鉄砲を持つものではないという当時の常識を覆し、窮地の会津を救う救世主となります。
月夜を見上げて、歌を詠んだ姿が印象的でした。

へ〜凄い感想ですね〜。もう一度見てみたくなりました!! 7月頃の放送では、会津に一人残った八重が「綺麗」とつぶやきましたが、

月夜を見上げて、歌を詠んだ姿が印象的でした。 国破れて山河あり 国破れても自然の恵みと美しさは残る それから、男達からの動きで再起の二文字を感じました。

そして、この『八重の桜』はあの新島襄が脇役になっているところが、逆にその周辺の今まで見えなかった人や歴史が描かれているところが見れて嬉しいのですが、 新島襄が神に祈る姿が長く放送され、英語ですが、祈りのシーンが出てきたことは、日本の大河ドラマではなかったことのよう気がして驚いたのですが、

祈る場面をドラマの途中ではなく冒頭に持ってきた事にびっくりしました。 セリフにある神の正義とはどういう意味なのか?も考えさせられました。

そして、八重の最初の夫、川崎尚之助との別れも出てきましたが、これは歴史から考えて、作り話と思うのですが、 川崎尚之助の八重を思う場面からは何か思うところはありましたか〜?

川崎尚之助はクリスチャンではありませんが、自分の為ではなく八重の為を思っての行為に献身的なキリスト教精神が感じられました。

山本覚馬がいる京都へは行かない妻、うらの姿からは?

家族はどの時代も大切ですが、場合によっては離れたほうが良い時もあると思います。

山本覚馬の「新しい国の見取り図だ。俺の仲間たちが見ていた未来だ。国が敗れ、滅び、灰になっても、その中から、身一つで立ち上がる者がきっといる。生き残った俺たちが、やらねばなんねえ」 「新政府が捨てたこの都に、俺は文明の町を作る。武力に押し潰される事のねえ、強え町を」と 「死んだ仲間の為にも生き残った俺達がやらねばならね」のセリフに心を打たれました。

新島襄の登場で、『八重の桜』にあの賛美歌「Jesus Loves Me」(主我を愛す) を襄が教えてみんなで歌うシーンが出てきましたが、大河ドラマということもあって驚いた人も多かったと思うのですが、嬉しかったですね!

賛美歌、神を讃える歌には、力がありますね。 新島が八重に教えた歌に新島が助け励まされるように!

京都にキリスト教が入ることが入ることは、ありえない事ぐらいの出来事だったと思うのですが、何を意味していると思います? 八重のセリフからは、京都でキリスト教のことを話すたびに追い出される襄に対しては、なんと!襄を励ますセリフが、聖書から伝わってきたイエスの行動と重ねて出てきましたよ。

「それぐらいの事、うちでは誰も驚きません。兄も私も、人が反対する事ばっかり、やってきましたから。・・・耶蘇がキリスト教を始めた時も、周りの人達は、そんな考えは間違っていると、こぞって反対したのですよね。でも耶蘇は怯む事なく、教えを広めたと聖書に書いてありました。だったら、同じようにすればよいのです」 と。そして、♪Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. ♪と八重が歌い、この賛美歌が軸になってプロポーズに発展するなど、 八重のセリフに“聖書”が出てくるとはこれまでの流れからは思いがけないセリフでした。

八重と襄がお互いに受け入れていくところが♪Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. ♪の賛美歌でつながったところからも、 維新で荒廃した京都にキリスト教が入り、形だけではなく人々の精神の復興が進む事に意味があったと思います。

その頃のことに関して出版された本などでからは、山本覚馬は、明治8年(1875年)春、当時大阪で伝道中のアメリカの会衆派の宣教団体アメリカン・ボードの宣教医M・L・ゴルドンから贈られた『天道溯原』を 読んで大いに共鳴、キリスト教こそが真に日本人の心を磨き、進歩を促進する力となり得ると感じた。とあり、ちょうどその時に新島襄が大阪で学校を創れると思っていたところ、キリスト教の学校ということで大阪で却下され、京都にふらふら遊びに来ていたところ、この二人が出会ったようなのですが、 覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲渡、新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可され、 この校地がやがて設立された同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなったなんて、同志社が創立された流れを私は『八重の桜』で初めて知りました。

京都で開催された博覧会や勝海舟と木戸孝允の動きもあったことや、英語をこの当時、覚馬が学べたことも大きいですね。

ドラマでの新島襄のセリフや行動からは、何か感想はありますか?
9月の放送で新島襄が強く見えても戦争で実は心がボロボロになっているような八重に伝えるセリフ、「向き合った方がいい。辛くても。・・・三郎さんや、会津の大切な人たちが亡くなったこと、あなたがしっかりと受け入れなければ、亡くなった人たちは安らかに眠れません。あなたの心の中の戦も、終わりません」

「亡くなった人たちは、もうどこにも行きません。あなたのそばにいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように。強くなるように」 は心に残りましたね。

襄がまっすぐ八重ととも人生を歩く姿が素敵です。 そして、近代になる日本に、聖書が渡ってきたことは、神さまが支えてくれると信じてまっすぐに東北の方も生きれたと思います。

その後は八重が襄に、「あなた行く道が私の行く道です。あなたと同じ志を持って生きて行きたいんです。そう決めたんです」と伝え、 禁止された聖書の授業を行っていた襄に役人と踏み込んで来た知事の槇村には八重が、「今ここで聖書は奪えても、学びたいという気持ちまでは奪えねえ。この子たちは乾いた土のように、何でも吸収します。聖書だけじゃありません。全て学ばせてやりてえのです」 など、女性でもはっきりと思ったことを主張できる姿も近代的になってきて素敵でしたよね。

襄がアメリカの知人宛てに書いた手紙で、結婚相手の八重を紹介した文章では、
「彼女は幾分、目の不自由な兄上に似ています。ある事をなすのが自分の務めだと一旦確信すると、もう誰をも恐れません。 ・・・私の目には、彼女はただただ、生き方がハンサムな方です。私にはそれで十分です」という襄のセリフも良かったです。

八重がクリスチャンになるまでの流れは、日本の歴史に大きいと思いましたか? 同志社という学校の名前や意味は、会津出身の覚馬が発案したということを卒業生でも知らなかったという人が多いのですが、 このドラマは、学校の歴史も教えてくれていて、このことは歴史的に意味があったと思います?

日本の歴史から考えても大きかったと思います! 日本を良くしようという同じ志を持った者であれば、過去の各藩の対立にとらわれず、それが可能になるからです。そして、 同志社で海老名が学ぶからです!

聖書が大河ドラマに出てきたことは、日本の歴史に影響あると思います?

はい。 近代日本の制度に取り入れられた西洋の文明にはその根底にキリスト教の考えがあるからです。

ドラマでは京都に場面が移ってから、西南戦争の場面が入りましたね? 西郷隆盛の動きは日本の歴史に大きかったという意味もあるのでしょうか?

この後の西南戦争後には日本で内乱は起きません。 その意味で、西郷ほどの実力者が下野し不平士族の犠牲になったと思います。

ドラマは襄が八重と一緒になって、同志社を立ち上げていく場面になりましたが、 第37回「過激な転校生」からは、 熊本から京都に来たキリスト教徒の生徒、熊本バンドと新島襄との口論のシーンが長く入ってきました。 襄のラストの涙ながらのセリフと八重のセリフから印象深かったことは、ありますか?

「良いものは良い」 キリスト教精神も建築も文化や政治の仕組みも良いものは良いとして取り入れているのが日本の文化だと感じました。
八重の「一緒に作っていきませんか」
「新島鵺(ぬえ)です」
八重は素直で心(しん)が強くユーモアがあると思いました。

襄のセリフは、学校、教育になぜ必要だと思いましたか?

「日本のために奉仕する事の出来る国(人びと)を愛する人間を育てる事」で人々の心の中にある差別や偏見のない社会が作られて行くからです。

それは、一見偽善的にも捉えられそうですが、 襄は、クリスチャンだからこその発言だったと思います?神さまとのつながりがあれば、実現できると思ったのでしようか?

実現出来るというよりも実現したかったのだと思います。

最近の『八重の桜』は、ナレーションにキリスト教とはっきり入ってる箇所が多くなってきたと思いません?
大河ドラマを今まであまり見ていなかったのでわからないのですが、めぜらしくはなかったですか?私はビックリだったのですが。

ナレーションのキリスト教も含め、「隣人を愛せよ」や「人を裁くな」などの聖句も多く出ていました。

「良いものは良い」からは?

キリスト教精神も建築も文化や政治の仕組みも良いものは良いとして取り入れているのが日本の文化だと感じました。

その中で、新島襄の泣きの姿は男らしくない。という感想を持った人も多いと思うのですが、

涙を流しても神を信じ人を赦そうとする強さがあります。

そして『八重の桜』は、熊本バンドの登場がしばらく多くなったことから、なんと弓町本郷教会の初代牧師も出てきましたよ。 これまた思いがけないことだったのでびっくりしましたが、印象はどうでしたか?

熊本バンドは、一種独特ですが特徴があって面白いです!!

熊本バンドの生徒との口論での襄の反論から何を感じましたか?

隣人愛を感じました。 人を赦すことにこの世の争いを少なくしていくヒントが隠れています。

ヒューマニズムにはない何か?

神への信仰がベースになっているセリフだったと思います。

ドラマの中では、熊本バンドが突き付けた改革要求に対して、襄が涙ながらに語ったセリフ、「国とは国家の事ではありません。国とはピープル、人々の事です。国を愛する心とは、自分自身を愛するように、目の前にいる他者を愛する事だと、私は信じています」 「型通りでなくてもいい。歩みが遅くてもいい。気骨ある者も大いに結構。良いものは良い。しかし己のために他者を排除する者は、私は断固として許さない!・・・我が同志社は、いかなる生徒も決して辞めさせません」は迫力ありましたよね。

「俺は、格好つけんと生徒んために涙流せる先生ば・・・男らしかって思った」という徳富猪一郎のセリフも印象的でした。

ドラマでは、木戸孝允の存在も大きく描かれてましたが、彼の役割は重要なんですか?

彼がいないと日本は少し変わっていた。利家とまつのころより史実の人物と役者の演技が重なり演技が上手になったように感じました。

山本覚馬の初代議長になったことからは?

朝敵つまり国(天皇)の敵と見なされていた会津出身の覚馬が京都府民の信頼を得、目が見えなくとも活躍の場が与えられたことに神の意志を感じます。

京都府会の初代議長に選ばれた覚馬が、議員席に向けて語ったセリフ
「これまで日本では、世の中の仕組みを変える為に、人を殺め町を焼き、戦が繰り返されてきました。だが、今日からは違う。武器を持たぬ者が議論によって政治に関われる場が、この府議会なのです」 というセリフも目が見えなくなった覚馬ならではのセリフとも感じました。

八重の嘘をかばう新島襄のシーンからは何が印象に残りました?

人を裁かない暖かさを学べました。

新島襄の父のセリフからは?

襄のことは分からないといいながら分かっていることが見えました。

「学生が授業を放棄するのも重大な過ちです。忘れないで下さい。教育を受ける事はあなた達の大切な、大切な権利です。過ちを犯した罰は受けねばなりません。全ての過ちの責任は、校長の私にあります。 よって私が罰を受けます」という新島襄の有名なセリフと行動に対する感想は?

隣人愛が描かれてた気がします。

同志社英学校の第1回の卒業式での新島襄のセリフからは?

「Go, go, go in peace. Be strong! Mysterious Hand guide you! (行け、行け、心安らかに行け。強くあれ。神の見えざる手が、君たちを助けてくれる)・・・同志諸君! 己の信じる道を歩んで行きましょう」

「Go!」「行け!」から伝道の雰囲気が感じられました。

海老名 弾正や、横井 時雄(伊勢時雄)が映像で見れたことは?

イメージが実像となることと人間らしさを感じられました。

「会津に行って教会を作りたい」と言った新島襄のセリフからは?

会津藩の人々は、戦に敗れ、そして家族や友人を失った方が大勢いました。その苦しみ、 そして敵対していた薩摩など新政府に対する憎しみは、そう簡単に消えるものではなかったと思います。 そのような中で、消えぬ苦しみを救うためにも、人間の罪を赦し人生の重荷を神が背負ってくださる場の一つである教会が必要だったとおもいます。

捨松と大山の結婚のシーンからは?

罪の赦しを感じました。会津戦争で会津と薩摩は仇同士で、人間の感情からはとても赦せるものではありません。 しかし、海外に出て、その地で洗礼を受けキリストが自らの命と引き換えに人間の罪を担い、 神が人々の罪を赦したことを理解していた捨松だからこそ可能なことでした。 その点から見て、捨松と大山の結婚は人間の常識では難しいことを、神の愛は可能にしてくれることを象徴しているようにおもいます。 福島の原発の問題でも、この二人のように耐え難い苦しみを乗り越え、そして互いが赦しあえるようになるきっかけをキリスト教が教えてくれるのではないでしょうか?

八重と新島が一緒に行動したり吉田松陰が会津にくるありえない例え話を聖書と関連して考えることはできますか?

はい。 イエスは、学校も少なく字を読めない人々が多かった時代に、分かりやすくたとえ話を用いてキリスト教を伝えました。 その中には、人間の常識や偏見を説く説教のあり方も含んでいたとおもいます。 今回の八重の桜も伝えたいメッセージが製作側にあるとおもいます。しかし、それを分かりやすく伝えるために、 実際の史実を少し脚色して多くの人々が楽しめるように実際はありえなかった出来事も取り入れているのではないでしょうか?

襄の祈りは感動しましたね〜。

「主よ、このちっぽけな命を神と祖国と愛する人々のために使わせてください」 シンプルですが、この祈りには大事な意味がしっかり込められています。私たちに置き換えれば、 「この一億分の一の命を神と日本と愛する家族や友人のために使わせてください。」ということに成るとおもいます。  大河でも神というセリフ自体が少ないですが、これは襄の命を掛け神とこの日本と八重や同志社のために生きる生き様をあらわしています。 今まさに震災の後、折からの不景気なども加わり日本はピンチでありますが、私たちも、小さな命を神と日本と愛する家族や友人のために使うときなのではないでしょうか?

松平のセリフも重要だったのですか?

容保には、天皇から頂いた「ごしんかんと御製」があり、それは会津が天皇の命により戦い、逆賊でないことの証です。 しかし、明治初期は薩摩長州を中心とした新政府が国の実権を握り、それを公にできない背景がありました。  しかし、この八重の桜が今年放送されることにより、会津の人々は逆賊ではないことが今回のセリフを通しても明らかになっています。 そのことを今回のセリフは今まさにあらわしています。

山本覚馬のセリフからも衝撃を受けましたね。

「難しい戦いだ。政府も世間も時には身内の宣教師も敵に回る」  基本的に、自分の人生の中で社会は厳しく、国や世の中が障害になることはあるかとおもいます。 しかし、時に家族といった身内との争いが起きることもあり、そのもっとも近い人を愛することが難しい場面が人生には起きる場合があります。  今回は、大学の身内の宣教師と八重や襄との隣人愛が試され、次回は山本家内部の隣人愛について考えさせるシーンがあるかと思います。  この、もっとも近き人を愛することの難しさとそれを克服するきっかけを与えてくれるのがキリスト教の隣人愛なのではないでしょうか? しかし、この家族を愛するということはクリスチャンにとっても神の力なしでは難しい場面がたくさんあり、今の日本に必要な、もっとも必要なことだとおもいます。

山本覚馬と時江洗礼のシーンは、これまで洗礼は、ナレーションだけだったのに、なんと今回は、映像になっていましたよ。

覚馬は今までの会津と日本を考えての罪と 時江の不倫が重なって 洗礼受けたようにも見えました。 時江は、洗礼受けたからかて罪は清められへんというのは 完璧な人間なんていないので、潔白とか 洗礼の先入観もなくなり 生まれ変わるわけではなく 人間らしいセリフでした。

新島襄の父のセリフから何か感じましたか?

「子は思うようにはならんという事を、心得ておくといい」 「断りもなくアメリカに渡ってくれて良かった。相談されたら、反対せねばならんところだった。子を信じ切るという事は、親にとって一番難しい」(新島民治) 亡くなる数日前に、襄と八重の前で父・民治が語ったセリフからは、 「親子においても難しいと」いうセリフは、どの人においても言えててよくわかりました。

八重のセリフからは、「なんかやるときはそんなのかもしれない」というセリフは 批判しながらも受け入れているセリフで良かったです。

タイトル「駆け落ち」の中での東京へ旅たつ健次郎への八重のセリフは重みがあるように感じましが?

「苦労と不幸は違う 」いうセリフが印象的でした。人生に苦しみはつきものですが、その苦しみの中でも神と共にあって幸せでいる事も出来るからです。

そんな風に思えるなんて、Kさんは、クリスチャンになる前となってからの感想がどんどん変わってきてますね。この座談会からしても、びっくりするような感想をもらえて感激です!
この「駆け落ち」の騒動の中では、ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブルル』がベースになって会話が展開されましたね。実は、昨年のクリスマスの時期から、日本では、映画『レ・ミゼラブル』がブームになってたくさんの人から感動の声を聞きました!

作り話の中でも、すんなり受け入れて見れることから、今の時代とあの幕末の時期とは似ているような気もしますね。

『レ・ミゼラブル』は、あらすじから感想まで、教会の坪井隆さんが、まとめてくださったので是非このあと、読んでみたくださいね。

46回『残された時間』というタイトルが良かったです。
命を大切にし、燃え上がる襄が見れて良かったです。
命を主に預けて、落ち着いている襄と反対に八重の人間らしい弱さを描かれてましたね。

「もうやめてくなんしょ!襄の心臓が破れてしまう!
襄の命が削られるくらいなら、大学なんてできなくていい!
私は襄を失いたくねぇ・・・・!大学は他の人でも作れる・・・・」

「私がいなくなっても、その後に続く人が、作り上げてくれる。私もそう信じます。・・・けれどそのためには、誰かが種をまかなければ!
一粒の麦を地に落とさなければ!私がやらなければならないのです!」
新約聖書 ヨハネの福音書12章24節
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」からの表現でしたね。
この新島襄のセリフも感動しました。今の私達の教会があることも、こんな方のお働きがあったからだと改めて感謝でき感動しました。
異国に密航して聖書と出会った襄からの信仰の言葉は、実際の日本の歴史の中でも大きく影響し、生き方が変わった人もほんとに多い。
その後は学校が発展でき、神学部の存在が大きくなったことも、計り知れない神さまの働きがあってのことなどを同時に感じます。

そして、ドラマでの「これは、襄の戦だった。戦なら、怖じ気づいて逃げる訳にはいがねえな」の妻 八重のセリフにも色んな自分の人生も重なって泣きました〜。

新島襄に寄付してくださった方が、教科書で見るだけでどんな方かわからなかった著名人もたくさん見れて嬉しかったです!

襄の最期のシーンになってしまいましたが、ここからは何を感じました?

死んでもまた会える喜びがキリスト教にはあると感じられました。

襄が聖書を読んでほしいというシーンがありましたが?
エフェソの信徒への手紙 3章7節〜8節ですね。
神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。
わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており〜

ドラマの中では「キリストの限りない愛をすべての人に宣べ伝えるためである。」と読まれましたね。

新島襄の人生そのものを聖書から感じました。

新島襄の死後の覚馬の八重へのセリフ 「赤十字の看護の精神は、敵味方の区別なく、傷ついた者に手を差し伸べる事にある。苦しむ者、悲しむ者に寄り添い、慈しみの光で世を照らす。・・・新島さんが、作ろうとした世界だ」 からは?

赤十字社の精神は、聖書の隣人愛が根底にあると感じました。そして、八重の戦争へ看護婦として行こうとする覚悟が印象的でした。 なぜなら、赤十字の看護は、キリストが教えた敵味方の区別のない愛の実践だから。

山本覚馬の最期のセリフからは何か残りましたか?
「諸君は学業を終え、これからそれぞれの仕事に就かれる。
どうか、弱い者を守る盾となってください。
かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。
その償いの道は半ばです。今、世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。
どうか、聖書の一節を心に深く刻んでください。
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』。
諸君は一国の、いや、世界の良心であってください。いかなる力にも、その知恵であらがい、道を切り拓いてください。 それが身をもって戦を知る私の願いです。」

イザヤ書 2章 4節
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

平和な世界を保つ為。 戊辰戦争後の日本は日清日露・世界大戦と平和が保たれませんでした。
平和に暮らす為に今も聖句は意味を持ちます。

「いつの日も花は咲く」と題された最終回はアドベントの時期になりました!! 山川家の偉業が語られましたが、

山川家の偉業は、自分個人の為だけではなく、会津の人びとの無念や日本の為にも頑張ったからこそ成し遂げられたと思います。

そしてラストは、八重が、かつては敵を憎み、敵に向けるために持っていた銃を、新島襄と出会い、クリスチャンになったことから 最終回ではハンサムウーマンとして、曇天を青空にするために最後の一発を放つというシーンになりましたが、

最後は、憎しみも苦しみも神に任せて生きれば良いという事を感じました。

八重が、会津戦争の殺人や亡国の罪苦を、キリスト教との出逢いにより救われたから。

この、『八重の桜』の当初のテーマは原発問題を考えるというのが、視聴者のサブテーマにもなっていたと思うのですが、

新島八重のセリフ、
「私は諦めない」
このセリフに、原発問題を解く力があります。

「何度でも花は咲く」
人の命も散りますが、新たな命には問題を解決する可能性も感じました。

ドラマが終わってからのラストに、同志社の栄光館ファウラーチャペルが八重の葬儀の紹介と今の同志社の礼拝シーンが放送で流れました。 個人的な感想ですが、栄光館ファウラーチャペルの建物が映像で映ったことから、クリスマスの時期なので、イエスさまの誕生について書かれている聖書の箇所が頭に浮かびましたよ!

ルカによる福音書 02章 13節〜
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

NHK大河ドラマ『八重の桜』が一年放送されたこと、演じられた俳優、全ての関係者とスタッフにワインを飲みながら、パンを食べながらですが、感謝いたします!!