日本の歴史、明治時代初期から考えてみました。

『敵討』と『八重の桜』

K.Y さんより

2013年の春、NHK大河ドラマ『八重の桜』を見始めた頃に、吉村昭の『かたきうち敵討』を読んだ。

二つの話がある。1つは 水野忠邦の天保の改革の頃、配下で辣腕をふるい「妖怪」と恐れられた町奉行鳥居耀蔵、その下働きをした茂平次。その茂平次に叔父と父を殺された伊予松山藩士熊倉伝十郎(二十四歳)がかたき敵を討つ話だ。
天保九年(1838年)十一月、伯父が殺害され、その実弟(これが伝十郎の父)が敵討ちをしようとして返り討ちに遭い、その息子伝十郎が正式に藩の許可を得て、影をひそめてしまった敵を、江戸から長崎へ、また江戸へと探し回り討ち取る。

敵を討ってからわかった事なのだが、伯父が殺された訳というのは、鳥居耀蔵が上役の町奉行を嫉んで剣客井上伝兵衛(これが伯父に当たる人)に暗殺を依頼するが拒否され、逆に口封じのため伝兵衛を闇討ちにしたのだった。 

幕府の老中首座として天保の改革で専権をふるった水野忠邦だが、その時期は短かかった。忠邦失脚とともに鳥居耀蔵も数々の悪事が裁かれることになる。

その下働き・茂平次が関わった悪事も明らかにされていくが、その1つに高島秋帆讒訴があり、この咎で茂平次は牢につながれていた。伝十郎はそれらの情報を得て、茂平次が牢から解き放たれる時を待って弘化3年(1846)敵討ちを成就させた。このような歴史的に著名な事件に巻きこまれる形で、この敵討ちは進行する。

あまり深く考えたことがなかったけれど、冷静に考えると敵討ちはとてもたいへんな事業だ。第一に、それは好んで選ぶのでなく、身に降りかかった災難として受け止め、向き合わねばならない。

敵討ちは、江戸時代の時期によって事情が異なるけれど、この時期には制度として公認されていた。それで藩から幕府に届けを出すことによって藩を越えて敵を追うことが出来、ゆとりのある場合は藩が生活費を支給することもあった。

しかし敵討ちが成就するまでは藩に戻って士官したり家督を継ぐ事は出来ないので、身分が固定され職業選択の自由がないこの時代には敵討ちをするほかはないことになる。 

第二に、敵捜索と殺害とを個人でしなければならないとは、なんとたいへんなことだろう。情報量の少ない、交通の手段といえば足で歩き回る位で、どこにいるかわからない、しかもほとんど日本全国に及ぶ敵の動きを追わなければならないとしたら。屈強かも知れない敵に対峙して、やりたくもない憎しみの事業を、一人でやれと放り出されたら。出来るまで帰ってくるなと突き放されて。

こんな話が挿入されている。伝十郎が長崎に茂平次を求めて出かけたが思うような情報は得られずに江戸に戻る途次、佐賀の旅籠で同宿になった旅回りの商人から聞いた話だ。この話は、江戸に戻ってからも伝十郎の胸にこびりついて離れなかったという。

それは商人が佐賀藩領のある山村の豪農の家の墓所に「豊前さん」という墓碑を見出した。その家の者が語るところでは、敵討ちの旅を続けていた豊前小倉藩の藩士が家の前に行き倒れになっていた。

介抱して回復したのち元藩士はそこに留まって、お礼のためだと雑用を引き受け働くようになった。家人は元藩士が無一文であるのを知り、路銀がなければお貸ししますから、敵討ちの旅をお続けなさいとすすめたが、元藩士は首をふるだけだった。

名も明かさなかったので、家の者は彼を豊前さんとよびならし、いつしか居つきの奉公人として働いた。人に親しまれたが口数は少なく、そのうちに病に冒されて死亡し、家人は豊前さんと刻んだ墓碑をたてて弔ったという。

商人は「敵に出遭うのは百に1つあるかどうかであるそうで、旅の途中で行き倒れになったり、気持ちがくじけて刀を二束三文で売り払い町人になるものも多いと聞きます。豊前さんももう敵討ちなどする気は毛頭なかったのでしょう」とつけ加えたが、伝十郎にはよく理解できた。長い間敵を求めて歩き回り、金もつきて行き倒れになった。

介抱を受けて病も癒えたかれは気力がすっかり失われているのを自覚したのだろう。敵はどこにいるかわからず、その旅は果てしなく続き、敵を見出さずにおわることもある。もしかしたら敵は既に死んでいるかもしれず、存在しないものを探す無為な旅であるかも知れない。行き倒れになったことで迷うことなく敵を討つ気持ちを放棄したのだろう。保護してくれた家の者に感謝し、武士であることの矜持も捨てて奉公人として働き、それに満足して死を迎えたにちがいない。

そして第三に、憎しみを目的として生きることの重さ。日々目覚める朝に、どんなに重い心で一日を始めることだろうか。「連日のようにあてもなく町々を歩くが、身体が土中に深く沈んで行くような孤独感を抱いていた。雪や雨の日には出かけるのが億劫になるが、この様な日にこそ茂平次に出遭うかも知れぬと思って町に出てゆくものの、むなしく戻るのが常であった」と作者は書いている。

私は思うのだが、たとえ成就しても、敵を殺したあとの充実感や、後の人生の充実感は本物なのだろうか。敵を、許すことはできないと自らにいい聞かせ、憎しみを繰り返しかき立て自分を振るいたたせることで本当に生きる力になるのだろうか? 

伝十郎は敵をうつ事が出来、藩に出仕し藩邸に母と妹と住むようになった。敵討ちとしてはかなり幸運だったと言えるだろう。そして嘉永六年(1853年)ペリー来航して世情騒然とする中、年の暮れに伝十郎は息を引き取った。梅毒だった。藩士たちは、伝十郎が敵を探し求めている間、気晴らしのため遊里に足をむけて毒におかされたのだ、と同情した。伝十郎自身かなり前からそれと察していたらしく、妻帯を奨められてもかたく拒んでいたという。

もう一つの話、「最後の敵討ち」は明治になってからの話だ。   

まだ十一歳の子供だった亘理六郎の父が殺された。父は秋月藩家老に次ぐ中老・三百石取りで、幕末の動乱の中、藩の軍制を近代化する中心として奔走していた。

殺害したのは父の革新的意見に反発する保守派で、未明、就寝中の犯行だった。首は落とされ、傍らにいた母も滅多切りにされ殺された。許すことはできない、憎しみを心の中に燃やしながら勉学にも武芸にも敵を討つためと励んだ。

成人し、仕事を転々としながら裁判所判事になっていた父の敵を討った。敵を討ったのは明治十三年十二月のことで、すでに藩は解体されて、近代法治国家のもと敵討ちは普通の殺人罪として裁かれるようになっていた。六郎は自首して終身刑となったが、明治憲法発布に際しての恩赦で下獄した。

三十四歳になっていた。母を殺した男は六郎の釈放を知って狂死。

六郎はその後仕出し屋などを営み妻もめとり六十歳まで生きた。この事件は当時世間を驚かし、最後の敵討ちの義挙として新聞などを通して評判になったという。

私は洗礼を受けてまだ数年にしかならないので、以前自分がどのように本を読んでいたかと較べてしまうことがある。

以前なら、敵討ちを宿命づけられた青年がキリスト教に出会っていたら、と考えることはあり得なかったと思うけれど、今回この話を読んで真っ先に考えたことはそのことだった。伝十郎や六郎の苦しみを救うものがあるとすれば、キリストの救い、あるいは赦ししかなかったのではないだろうかと。この時代の日本ではキリスト教は禁じられており、近づくこと、理解することは出来なかった。

武家社会の掟に背いて生きる道はなかっただろう、だから彼らはあのようにしか生きられなかった。

歴史を超えて、いまある社会の仕組みの外に身を置いて生きることなど人には出来ないが、もしキリスト教を知っていたら歴史を超えてしまうかも知れない、と今私は思っている。

伝十郎や六郎のような場合でなくても、許すことはどんなに難しいことかと思う。それは自分をしばる憎しみ、怒り(悲しみさえも)を超えることでもある。それを超えることが自分にとっては救いなのではないか。

敵に対する、自分に対する赦しは則ち救いなのだという気がする。でも多分、人間は自分の力でそれを超えることができない。

イエス・キリストという存在を得てようやく超えることができ、救われるのではないだろうか、そんな気がした。

伝十郎が死んだ年、ペリー来航から幕末の動乱が日本を覆い、会津藩の悲劇への道が始まる。多くの藩が同じような動乱の渦の中にあって、六郎の父も改革か保守かの政争で殺害され六郎の敵討ちが始まる。

会津藩は戊辰戦争末期に、薩長中心の官軍に徹底的に破壊され殺戮される。それによって新政府を確たるものとするためにいはば犠牲に供され、その犠牲の上に明治時代がはじまる。

会津藩に正義があると信じて戦い敗れた人々は、長い間鹿児島人や長州人を許さず、例えば結婚話など成立させるのは難しかったと(それは現在でも)聞いている。

こうした会津人の代表たる山本八重は、藩規模での敵討に向かっていくのだろう。許すことなどとても出来ないと考えるにちがいない。それでも八重は、キリスト教に出会う。

どのようにしてなのだろう、あの凄惨な戦いの記憶をどのように乗り越えるのだろう、赦しや救いがどのように八重におとずれるのだろろう、どのように彼女は歴史を超えるのだろう、私はとても興味深く進展を見守っている。 (2013年10月)



―大河ドラマ「八重の桜」と同志社―

神との出会いと共に T.W さんより

八重の桜の製作が決まったと聞いたときは、私が同志社を卒業して1年が経った頃でした。

新島八重。歴史の教科書にも著名な歴史小説にも登場しない、一人の女性を大河ドラマの主役として取り上げるとは…。

私自身、新島八重については、同志社で創立時の歴史について授業で少し学んでやっと知った程度でした。

また、同志社で学ぶ学生にとっても、新島襄の名前に比べ、新島八重についてはほとんど知らないという学生が多いと思います。

さて、私が洗礼を受け、クリスチャンとなったのは、同志社の大学院で学んでいた時のことです。

同志社の学部を卒業し、大学院に進みましたが、同志社がキリスト教の大学であるということは知っていたものの、それ以上のことをを知らないまま学生生活を送っていました。

しかし、そのようなとき、不意に私にとって重大な変化がふりかかってきました。深い苦しみと不安を伴う変化でした。

そんなとき、私の中で、同志社がキリスト教の大学であることが急に意識に上ってきました。

同志社には神学部があります。神学部があるということは、教会の牧師を養成しているということです。

それなら、同志社が関わる教会があるはずだ。私がそう思ったとき、私は同志社教会という一つの教会と出会いました。

私は教会の礼拝に出席しました。司式の進むままに、賛美歌を歌い、牧師の説教を聴き、そして手を組み、瞼を落として、祈ってみました。

すると、心の中になぜか懐かしさがこみあげてきました。初めて来た場所にも関わらず。そして、不思議な安らぎと力強さを覚えました。

その後、教会の礼拝に通い続け、1ヶ月後、不意に降りかかってきた苦しみや不安は、次第に解きほぐされていきました。

それから、私はキリスト教と同志社の歴史について一生懸命に学ぶようになりました。

同志社での学生生活で忘れられないことは、同志社の先生方が、学生を学生として扱うだけではなく、一人の人間として扱って下さったことです。

ある先生は、かつて牧師をされていました。あまりその当時のことを多く語られる方ではありませんでしたし、学生に個人的なことをあまり聞かれることのない先生でした。

しかし、私が個人的な悩みや研究での行き詰まりを率直に話すと、真摯に受け止め、そして、短くも示唆に富んだ言葉で卒業まで励まし続けて下さいました。

大河ドラマで、新島襄は、雄弁に学生語りかけるよりは、どちらかと言えば、気弱で控え目で、教師たちを困らせる血気盛んな学生たちと真摯に向い合い、そして時に深い言葉を投げかける姿が描かれています。

多くを語るよりは、人の心や存在そのものに耳を澄ます、明治初期、強い「男子」こそが理想とされた時代に、新島の姿が示したその姿勢は現代でも新鮮で斬新な姿として心に映ると思います。

妻の新島八重は、激動する幕末に故郷・会津と共にあり、共に戦って負けた「負け犬」でした。

その姿に、「負け犬」にこそ立ち上がる力を与えるものの存在を感じずにはいられません。

同じく、はじめに同志社で学んだ熊本バンドの学生たちも、優秀ながらもキリスト教を信じたがゆえに、親や地元から追い出され、逃れてきた若者たちでした。

新島と同志社は、そんな優秀ながらも迫害された「負け犬」たちを受け入れ、教育を受ける機会を与え、社会に送り出し、宗教や福祉、教育を中心として、誰もやらない未知の分野を切り開いて来た人物を多く輩出してきました。

ここ弓町本郷教会は、そんな「負け犬」の内の一人、同志社第1回卒業生の海老名弾正が初穂をもたらし、そして、その後、多くの同志社出身の牧師が働きをなしてきました。

同志社に連なる教会は全国各地にあります。新島襄が伝えようとした想いは、今でも学園として、また教会としての同志社に受け継がれています。

大河ドラマ「八重の桜」により、教会とキリスト教に関心をお持ちになられた方がいらっしゃれば、ぜひ弓町本郷教会にお越しください。

様々な機会を通して神と出会われた喜びとその意味を共に分かち合えることができたらと心から祈っています。