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クリスチャンの声 坪井節子さんより 『 呻きと軋みの直中で 』 - 夕礼拝 証にて

2010年の1月12日、ハイチの大地震が起き、瓦礫に埋もれた死傷者が数十万人にのぼるかもしれないというニュースを聞いた瞬間、恐らく多くのクリスチャンが、「なぜ神はこのような恐ろしい惨事を引き起こされるのか」と衝撃を受けたに違いない。私もそのひとりだった。

この問いが起きるのは、このときが初めてということはない。弁護士業務の中で、カリヨン子どもセンターの活動の中で、家族や友人の間で、日常生活の中でも、自分の予想だにしない、コントロールを超えた、苦しく、悲しい現実にぶつかるたびに、のべつまくなしに「神様、なぜこのようなことを起こされたのですか。なぜですか。」と訴えかけているように思う。

しかしそれでも、ハイチ大地震はやはり衝撃であった。この同じ瞬間、同じ地上で、想像を絶する人々が、特に貧しく日々の生活にも事欠くような人々、そして身を守るすべのない幼い子どもらが命を奪われ、救いの手も届かずに、恐怖や痛みに呻いている壮絶な現場が目に浮かんだ。「神様は、いったいどこで何をしておられるのか。」

『マルコによる福音書 6章30節〜43説』

怒りと悲しみの中で、そのように問いかけていたとき、私の脳裏に浮かんだのは、陰惨な瓦礫の中、砂埃が舞い、ぎしぎしと壁が軋み、崩れ落ち続け、呻き声や泣き声があふれる現場を、血眼になって歩きまわるイエス・キリストの姿だった。イエス様は、助けを求めるひとりひとりの傍らに近寄り、家族を失って嘆く人の傍に近寄り、慰め、励まし、傷を癒し続けておられた。「そうなのか。イエス様はあの呻きと軋みの直中におられる。

神様は、人間の苦悩の直中に御子イエスを送られたのだ。イエス様は、人々と共に痛みを背負い、恐怖に耐え、悲しみに泣き、傍らで必死に祈り続けておられる。

なぜこのような大惨事が起きたのか。それは人間にはわからない。神の意思ははかりがたい。しかし少なくとも神は、悲惨の中にある人々を見捨ててはおかないという意志を、行動で示されている。」

イエス・キリストが送られた聖霊に導かれ、多くの国々から、たくさんの人々が、様々な支援をハイチに集中している。クリスチャンも、クリスチャンでない人も。何の見返りも求めず、この悲惨さの中から人々を救い出そうと働いている。そのひとつひとつが、イエス様のわざに重なって見えた。

今まで気づかなかったメッセージが聞こえてきた。

そのとき、聖書の中の、イエス・キリストが集まってきた群集を見て、「飼い主のない羊のようだ」と憐れまれたという箇所が浮かんだ。どこだったろうかとマルコによる福音書をぱらぱらとめくっていると、イエス・キリストが目の見えない人、耳の聞こえない人、足の萎えた人、思い皮膚病を患っている人、悪霊に取りつかれた人を癒されたという箇所が次々と目についた。

そうそう、イエス様は今ハイチのあの苦しむ人々の中で、こうして働き続けておられるのだと思ううちに、6章34節に辿りついた。イエス様は、大勢の群集を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められたとある。ハイチの現場を歩かれるイエス様のまなざしが、見えるように思った。

そしてそのあとの箇所を読み進むうちに、今まで気づかなかったメッセージが聞こえてきた。 この箇所は、いつもよくわからなかった。男だけで5000人とあるが、イエス様の言葉に聴き従うひとは、どの教会を見てもわかるように、女性の方が多いだろうから、きっと女性や子どもの数はもっと多かったのだろう。

だから少なくとも1万人以上の人はいたのだろう。それほど多くの人々に、イエス様は5つのパンと二匹の魚だけで、満腹させるまでの食事をさせたというのだ。

『聖書に書かれている奇跡といわれる多くの箇所』

聖書に書かれている奇跡といわれる多くの箇所は、それが人間の理解を超えてはいても、目が開いた、歩けるようになったなど、何がそこで起きたのかという場面を想像できる。

復活したイエス様が現れる場面ですら、語られる光景は想像することができるような気がする。しかしここの場面は、いったい何が起きたのかを想像することができなかったのである。

ところが、まず、「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来ていった。ここは人里離れたところで、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」という箇所。

私はこれまで、弟子たちの言うことの方が、理にかなっているではないかという感想を持っていた。これに対しイエス様が、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われたことの方が、それは無理でしょう、弟子はイエス様と違って奇跡を起こせないのだから、と思っていた。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」という弟子たちの言葉も、当然だと思っていた。

しかしよく読むと

しかしよく読むと、弟子たちは、力のない、飼い主のない羊のように助けを求めている人々を追い払い、自分のことは自分の責任で解決すればいいではないかと、突き放しているのである。

自分たちには、解決策がないからどうすることもできない、彼らは彼らの自己責任で何とかしろということである。結局そのあと彼らがどうなろうと、自分たちには関係がないと考えているのである。イエス様は、そこのところを見極められた。

イエス様に出会い、命の言葉を与えられ、救われた弟子たち、つまり私たちクリスチャンに、イエス様は言われる。今度は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と。それがクリスチャンの使命だと

そして「パンは幾つあるのか」と尋ねられた。

パンは全くなかったのではない。探したら5つはあったのである。それどころか、魚も二匹見つかったのである。弟子たちは、自分たちには何もないと思い込んでいたのかもしれないし、そればかしの食べ物では、どうにもならないと諦めていたのかもしれない。

私たちも思っている。この社会で苦しむ人々はあまりに多いが、私たちには何の力もない、どうすることもできないと。しかし自分の中を、教会の中を探してみたら、ほんの少しであっても、真心や、お金や、能力や、場所や、そして拙いかもしれないけれど、神様から頂いた言葉が見つかるはずなのだ。それは、実はすべて神様が私たちの与えてくださった賜物。ほんの少ししかないと思っている賜物。

それをイエス様に差し出す。するとイエス様はそれをとって、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂き、二匹の魚も裂き、弟子たちに渡し始める。いくら裂いても、裂いても、渡しても、なくならないパンと魚。不思議な不思議なパンと魚。

ここで大切なのは

ここで大切なのは、イエス様ご自身が配られたのではないということ。イエス様が裂き、弟子たちに配らせるのである。私たちがおずおずと差し出した、ほんの少しばかりの賜物を、イエス様は祝福し、裂いても裂いてもなくならない深い豊かな力にして、言葉にして、私たちに返してこられる。

ほら、空腹に耐えかねているあの女、ひとりぼっちで泣いているあの子ども、死にたくなっているあの男に、分け与えてきなさいと渡される。それがあなたたちの使命だと。足りなくなったら、とりにいらっしゃい、私がいくらでもあなたに渡してあげる、命のパンは決してつきることはないと、イエス様が真ん中で待機しておられる。

たくさんの教会が必要な理由は

そしてもうひとつ。イエス様は、人々を、50人、100人ずつまとまった組に分けて、青草の上に座らせるよう命じられた。これもすごいことである。

1万人もの群集を、列に並ばせて、パンと魚を配り始めたとしても、本当にすべての人に行き渡るだろうか。ハイチの被災現場の映像で、配給された食糧を奪い合う人々の姿が映し出されていた。イエス様の回りの群衆にも、そのような大混乱が起きることは必定のように思うし、小さな子どもや病気の人は後回しにされ、結局もらうこともできないままになってしまったかもしれない。

しかし50人、多くても100人なら、そのグループごとに、ひとりひとりの顔が見える。ひとりひとりの存在が確認できる。弟子たちが、グループごとにパンと魚を配り歩く。恐らくそれぞれのグループごとに世話をする人が立ちあがり、弟子から受け取ったパンと魚を、すわっている仲間に漏れなく配っていったことだろう。

誰ひとり欠けることなく、食べ物を分け与えられ、仲間と共に食事をすることができる。それぞれの地域に、たくさんの教会が必要な理由は、ここにあるのだと思った。

12の籠にいっぱい

すべての人が食べて満腹し、残りを集めると12の籠にいっぱいになったという。それがイエス様のなさろうとすることなのだ。私たちは、何もできないと最初から逃げ出しているのではないか。今この瞬間にも、生きることが苦しくて怖くて、不安で呻いている人、人間関係がぎしぎしと軋む中で押しつぶされそうになっている人を突き放して、自分の責任で何とかしなさいと突き放していないか。その直中でこそ、私たちに働くようにとイエス様は背中を押しておられるのではないか。

私は、毎日のように、予想もしない事件、取り返しのつかない失敗、理不尽な仕打ちなどに打ちのめされ、疲れて、惨めで、神様を恨みたくなり、神様の前に心を整えて祈ることなどできないという状態に陥る。目の前で苦しんでいる人に、どうしてあげたらいいのかわからず、自分の無力が情けなく、途方にくれることもしょっちゅうである。

神様に祈ったところで

神様に祈ったところで、この現実にたちはだかる壁が崩れるわけがない、そんな奇跡が起きるはずがない、神様が私の願いを簡単に聞いてくれるはずがない、祈ったところで虚しいだけだと、どんどん神様から離れようとしている。

だけれどこのごろ、その度に、この直中にこそ神様をおられる、破れだらけで、途方にくれた状態のままで、何を祈ったらいいのかもわからない混乱の中で、それでも神に祈るのだ、それしかない、神以外のどこに希望があるというのか、というという一縷の望みにすがって、祈るのである。

最初の瞬間には、無理やりのように、抗う自分の心に、口に「主なる神よ」と唱えさせる。時には言葉が続かない。そのときは主の祈りを口にする。辛い祈りである。どこへ辿りつくともしれない不安な祈りである。

こんな祈りは聞かれないと思いつつ、「お前は他のどこに救いがあると言うのか。私以外を神としてはならない。」という声を聞く。「なぜ私にこんな苦難を与えられるのですか」と問うと、パウロに神が答えられたように、「私の恵みはあなたに十分である。」という答えが返ってくる。

こんな状態を恵みと言うのですか。感謝しろとおっしゃるのですか」と食ってかかると

「こんな状態を恵みと言うのですか。感謝しろとおっしゃるのですか」と食ってかかると、「あなたの命は私が与えた。あなたは何ひとつ不自由なく生きている。」と言われる。このあたりまで来れられと、大分息ができるようになっている。

「神様、私は苦しいのです。どうしたらいいのか途方に暮れています。恐いのです。」と本音が出る。すると「私はあなたを決してひとりにはしない。あなたを見捨てない。恐れるな。私はあなたと共にいる。」と答えてくださる。ほっと肩の力が抜ける。

そして「できることなら、この苦しみを私からとりのけてください。しかし私の願いではなく、神様の御心のままになりますように。」と、イエス様が十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で祈られた祈りを、そのままにまねる。ここまで来れたら、もう安心である。イエス様が私の傍らにいて、一緒に戦い、守ってくださっていることを感じつつ、目の前の現実の中に、歩みいることができるようになる。

祈りは聞かれる。必ず聞かれる。私が望むようにではないこともしばしばであるが

祈りは聞かれる。必ず聞かれる。私が望むようにではないこともしばしばであるが、神様が何を望んでおられたかを知らされ、感謝せずにはおられず、喜びが胸に満ち溢れるときがくる。

それが長続きするわけではない。またすぐに、真っ暗闇に襲われるジェットコースターのようだと感じている。でも祈る。朝仕事に出る前に、聖書を開き、祈るのだけれど、それだけではない。人と話をしながら、移動の車中で、歩きながらでも、のべつまくなしに祈っているときもある。

私が活動をしているカリヨン子どもセンターで

私が活動をしているカリヨン子どもセンターで出会う、虐待や非行から逃れ、帰る家の見つからない子どもたちと向かい合うとき、どうしていいかわからない真っ暗闇に陥った気持ちになることがある。

そのようなときも、まさに、当の子どもと話しながら、その目を見ながら、神に祈っていることがある。「神様どうしたらいいのですか。なんと答えたらいいのですが。どうかここにいらしてください。」と必死に祈る。

カリヨンへ来る子どもは、ひとりぼっちである。生まれてこなければよかったと思っている。

私たちは子どもの人生を解決してあげるようなことなどできない。せめてひとりぼっちにしない、一緒に考えようということを、子どもへのメッセージとして伝えたいと思っている。

「どうして私をひとりにしないと約束できるの?」

ある少女が尋ねた。「坪井さんは、どうして私をひとりにしないと約束できるの?」と。大人に見捨てられ続け、裏切られ続けてきた子どもは、大人など信用しないと思っている。期待して、また裏切られるくらいなら、最初から期待などしないと思っている。

だから、いくら私が約束するよと言ってみたところで、何の説得力もないと感じた。

私は思わぬことを子どもに語っていた

祈りつつ、私は思わぬことを子どもに語っていた。自分が神様を信じていることを、子どもに告白しだしたのである。「あなたには見えないかもしれないけれど、私は神様を信じてるの。神様がね、私に、お前を決してひとりにはしないと約束してくださっているの。私はその約束をあなたに伝えているんだよ。神様の約束なの。」子どもがどのような反応をするのか、予測もつかなかった。はすに構えて生きている子どもは、鼻で笑うかもしれないと思った。ところが彼女は、「ふーん」と頷き、それ以上何も言わなかった。何かを受け止めてくれたらしいと感じた。

ある子は、「私の生きる道なんか見えない。目の前真っ暗。何故道が見つかるなんていえるの。」とつっかかってきたことがあった。私にも見えなかった。

この子がどうしたら生きていけるのか。でもここでも、祈るしかなかった。そして語った。「あなたの命は、自分で作った?」「ううん、違う。」「どこから来たのかなあ?」「親でしょ。」「親だって、命を作れる?」「じゃあ、宇宙から?」「そうだね。宇宙からか、神様から、わからないけれど、とにかく人間は自分でこの世界に生まれてきたのではないよね。

命がどこかから、人間を超えた何かから送り出されてきたんだよね。命が送られてきたのに、生きる道が一緒に備えられていないはずはないよ。あなたにも、私にも、今は見えないだけ。

人間が見えている部分なんて、ほんの一部なんだよ。

人間が見えている部分なんて、ほんの一部なんだよ。見えていないところが、とても広い。そこにあなたの生きる道はきっと備えられてる。だから、きっと見つかる。」「ほんとう?」「うん。ほんと。一緒に探そうね。」という対話が続いた。

到底私が語った言葉ではなかった。どうしていいかわからないその現場で、その直中で、神に祈る。祈りは聞き届けられる。その恵み、その喜びを感じる瞬間が来る。

呻きと軋みの直中におられる神に祈りたい。

呻きと軋みの直中におられる神に祈りたい。そこにおられるイエス様に、何をどうしたらいいのかを聞きたい。そして私たちクリスチャンが、教会が、この社会の呻きと軋みの直中で、「どうしたらいいのでしょう。私たちは、何をしたらいいのでしょう。どうしたらあなたの御言葉を、あなたの救いを告げ広めることができるのでしょうか。」と、祈りをあわせたい。

私たちに与えられている賜物を差し出し、イエス様に何倍にも、何十倍にもしていただき、苦しみや悲しみの中で、呻きながら助けを待っている人々に分け与えたい。その使命を果たすことができるようにと、祈りをあわせよう。

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