クリスチャンの声 S. U. さんより 『 家族で教会に通う恵み 』
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」使徒言行録17:31
小学生の時にテレビの科学番組を見ていて、地球は数十億年後に大きくなった太陽に焼きつくされて消滅することを知りました。「死んだらどうなるんだろう・・・」自分の寿命が尽きるよりもはるかに先の地球滅亡のシナリオを通してではありましたが、滅びを宿命づけられた人という存在が本質的に絶望にあるという恐怖の現実に初めて気づいた時でした。
「何のために生きているんだろう」、「自分とはなんだろう」「罪とはなんだろう」。
恐怖は空しさに変わり、10代、20代、30代と、人生の様々な局面でその空しさは心の奥底から何度も形を変えて立ち上ってきました。
しかしその度に、私の近くには聖書の御言葉があり、御言葉から希望と励ましを与えられて歩んできました。創り主がいること、その創り主が私たち一人ひとりを覚えて愛してくださっていることは、私にとって底なしの空虚の中に輝く希望の光です。私にとって聖書の御言葉はまさに救いの福音でした。
家族で教会に通う恵み
そんな私は、現在、妻と2人の息子(2歳と0歳)と一緒に、家族4人で毎週教会に通っています。小さな子供たちがいると、思っていたように物事は進まないため、家族で教会に通うことだけでも一大事ですが、なんとか毎週礼拝を捧げる恵みに与っています。大変ながらも毎週教会に通う理由は2つあります。
一つ目は、礼拝に毎週出席することは神が定めた命令だからです。
科学や技術の発展により人類の可能性は無限に広がるようにも錯覚しますが、永遠・無限を前にして人の存在は無力であり、神なしでは存在する力どころか存在する意味ももたない、はかない存在であると思っています。礼拝出席を通して、神を畏れることの大切さを認識します。
二つ目は、礼拝出席は神から与えられた恵みだからです。日常生活では、仕事の忙しさや人間関係に翻弄されて、自分の人生にとって本当に重要なことは何なのか、何をすべきなのか、あるいは何をしたいのかさえ見失いがちです。
しかし礼拝の中で牧師を通して語られる聖書の言葉の説き明かしにより、自分の罪を認識し、人はパンのみで生きるものではないことに気付かされます。私たち人間のようなちっぽけな存在が、創造主である神と対峙して礼拝することが許されている恵みは、イエスキリストの購いの十字架により罪が赦されて実現した、人間ゆえの特権だと思っています。
教会学校へ
礼拝とは別に、私たち家族は月に1度、新生児から小学生までを対象にした「第二部礼拝」という教会学校のクラスの1つにも出席しています。ただし、息子たちはまだ言葉もよくわからない年齢なので先生の話はほとんど理解できず、ただ出席してその場にいるだけです。「言葉も分からないのに何のために?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、教会学校の先生や友達と一緒に神様を礼拝できる場が与えられている恵みに、親として心から感謝しています。教会学校は聖書の御言葉を聞くだけでなく、御言葉が人を通して体現する場でもあると思っています。
教会学校の先生や友達と交流を通して、息子たちの心の中に御言葉が根付く素地が育まれればと願っています。
息子たちがこれから成長する中で、私が経験したことと同じように、自分という存在に気づき、人間関係や人間の本質に悩むことがあるだろうと思います。
情報が氾濫し目まぐるしく移り変わる世の中ですから、そのような悩みや空しさをごまかしながら、幸せなふりをして生活することができるかもしれません。
しかし、息子たちにはそのような思いをごまかすことなく、神と対峙して、御言葉に導かれて生かされることの恵みを知ってもらえればと願っています。息子たちに福音を語り継ぐことは、親として与えられる最高の贈り物だと思っています。
教会と同様に、家庭も御言葉が体現する場です。創り主を覚えて毎週礼拝を捧げることを大切にし、日々の恵みに感謝してその恵みを分かち合うという経験を妻や子供たちと共有できればと思っています。