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「信仰告白 「求める」  クリスチャン( 山崎敬子さん)より

洗礼について(photo)

私は成人してから教会に通いだして、2011年4月24日のイースターに洗礼を受けました。教会に通いだしたきっかけは会社生活で辛い日々がったときに、聖書の「すべて、 疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。休ませてあげよう 」(マタイによる福音書11章28節) の言葉でした。

そんなに言うのだったら休ませてもらおう、私を休ますことが可能だったらやってみてよ、という思いでした。そうして教会に通うようになりました。

「求める」って難しい

しかしながら、神様とどういう風に関わっていくのか、どうしていいのか、何をすればいいのかさっぱり分かりませんでした。洗礼を受けた今現在でも正解など全くわからないですし、正解などないものと思っています。ただ当時はとても悩んでいたし、いろいろ試したり、自分の中で考えたりしていました。それを今、正直に話してみたいと思います。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイによる福音書7章7節)という聖書の言葉があります。教会で出会った方から、「求めてごらんなさい」とアドバイスされるのですが、これが私には難しかったです。求めることが無かったのです。

確かに希望としては、とりあえず休みたいということはありました。でもまあ、仮に休めたとしても辛い日常は待っていて、そしたら堂々巡りじゃないかともニヒルに思ってもいました。

今思うと、人間関係で悩んで辛かった当時の自分は「しょうがないじゃない」「だって・・・だから」「どうしようもないんだ」と思ってばっかりで、求めることがない状態でした。自分のしたいことは何だろうとか、幸せな状態は何だろうとか、自分を見つめる時間も心の余裕すらも無かったのです。

では何を求めてみるのか?とりあえず、小さい小さいことから始めました。具体的には「朝○時に起きたい」「この用事を○日までに終わらせること」。それらをメモに書いておいて、日常を過ごしてみると、大部分はきちんと達成されていました。

最初は単なる自己管理だと思っていたし、そう思いながら続けていました。とすると、これは出来ないんじゃないかということも出来ていて、ホームラン級の達成もいくつか出てきます。

そうしているうちに、求める内容も自分は本当は何をしたいのだろうかなどといった比較的深い内容になり、静けさの中で自分と向き合って出てきた事を主に願うようになっていきました。こういった過程で、主は私のことをちゃんと見てくださっているんだと気付くようになりました。

「求める」中で考えついたことが1つあります。それは求める相手を信頼していて、且つ、求めると与えられると実感しているからこそ求めることができるということです。最初っから出来ないと決め付けているものは、求める内容にすら入ってこない。求めることができないです。逆に「主が見てくださって愛してくださってる、だから叶えられるかもしれない」という内容は、誠実に求めることができると思います。

基礎講座を受講して考えがガラッと変わる

もっとキリスト教を理解してみたいと基礎講座を受ける機会があって、そこで神様への考え方を180度ガラッと変えるような新鮮な講義がありましたので、お話したいと思います。その一つは『全知全能の神』は『愛する神』だということです。神様は、全知全能の能力を使って人を愛するのです

まず「『愛する』とは何だろう?」という話し合いがありました。ここで「好き」との違いの話がありました。「好き」は自分の感情で、今A(例えば青色)が好き、次の時期にはB(例えば赤色)が好きと、好きな対象が変わっていきます。これに対して「愛する」は「好き」の全く逆で、愛は対象が変わりません。愛していると、相手がどうなっても、例えば身体的にどうしようもない怪我を負った場合や私を拒否して暴言を吐く場合でも、相手の現状やその変化を自分が変わって受け入れていこうとしていきます。そこで、相手を愛するということは自分が変わっていくということだ、という話に至りました。

そうすると、神様はまさに、自分を変えるほど人を愛しているのです。私を愛して、自分を変えていってくださるのです。それまでの私の中でも神様像は、神様は何事にも動じない完璧で何でも出来る方で、あなたは乗り越えられるからと試練をお与えになる。 でも私はその試練が辛くて自分を責めてボロボロ泣いている。そんな状態で乗り越えられると言われても、神様が私をもっと強くて感情のない人間に作ってくれていたら良かったのに、と思うときもありました。

しかしながら「愛する神」を聞いて、それはやはり違うんだなあと思います。私の場合、母親のことがとても大切なのですが、母が傷ついているなら傍に寄り添いたい、何もできなくてもいいから少しでも苦悩を理解したいと思うと思いますし、母が感情のない人になって欲しいなんて少しも思わないでしょう。神様はもっともっと大きい愛で、愛してくださっています。

礼拝の説教より --愛する神の視点から--

愛する神の視点に立つと、御言葉も今までと違った形となって私に届きます。最近の説教の中で、見失った羊を見つけて大喜びする羊飼いのお話(ルカによる福音書15章1節)が心に残っています。数ある羊の中でたった1匹の羊を見失ってしまったら、他の羊を置いておいてその1匹を見つかるまで探し回るというお話です。この時代の野原というのは荒野に近く、猛獣も多くいて、見失って日が暮れればまあまず助からないというのが常識だったと思います。

それでも「見つけ出すまで」捜し回るのです。そのときの羊飼いのその1匹の羊のことを思って不安そうな、思いつめたような横顔が目に浮かぶようです。羊飼いは、なんとしてもその1匹が助かってほしいという思いで心が占められているのでしょう。それが主(神様)だと思うと、なんとも愛着が沸くのです。

今までの自分なら、聖書はちょこちょこと読んでいたんですが、羊飼いって大変だねーで終わりでした。というより、あまりピンとこない聖書の箇所は頭に残らず読み飛ばしてしまうことが多いのです。一人で聖書を読んでいると、どうしてもそうなりがちだと思います。
そこでやはり礼拝の説教で牧師のアンテナを通した御言葉と触れることをおすすめします。

なぜ洗礼を受けたのか?

「私は主に愛されてる」と思えることができるようになった時点で、洗礼を受けたいと思いましたし、実際に洗礼を受けました。家族の理解が大きかった部分もありますが、自分の中ではあまりにも自然な流れで「どうして重大な決意をされたのか?」と聞かれても、答えようのない部分が大きいのです。

今振り返ってみると、私は少しでも幸せになりたかったのだと思います。辛い日々の中で自分には生きている価値がないとか、私を苦しめている人なんてもっと苦しんだらいいとか、グロイ感情で心が占められて耐えられなかったです。

そんなときに、私は神様に常にいつも愛されている、だから価値が無いはずなんて絶対にない、と感じたかったです。そして、私を苦しめた人も含めた世の中の人間すべてが愛されているんだから、復讐やそんなグロイ感情は良くないよと思いたかった。前に進みたかったです。だから「私は主に愛されている」と思える時点で、キリスト教のすべてを受け入れていこうと歩みだしました。

進化論については?

しかし一方で、「進化論を否定するのか?」など穿った見方があり、この問いに答えられずに躊躇してキリスト教に距離を感じてしまう方もいるかもしれません。これに対して私は、大学院まで自然科学系を専攻してきたのですが、全く気にしていません。

それは、世の中でのすべての法則・定理、例えばニュートンの法則もすべて「こういう風に考えたら事象を上手く説明できるよね」っていう仮説だと思うからです。理系分野でも先端に行けば行くほど、どうしてこんなことになるのかわからない事象がたくさんあります。それを説明しようとして研究者は仮説をいっぱい立てます。それぞれの仮説の中で、とりあえず矛盾のないものが残っていって正しいような説として広まりますが、要は「今のところ矛盾がない」というだけです。新たに説明できないような矛盾が見つかると、新たな仮説が生まれるだけです。

これはこれで科学を学ぶ楽しさではありますが、進化論もそういった仮説の1つであるだけで、それが本当に本当に正しいか否かは誰にもわかりません、これが私の進化論に対する個人的な意見です。そんな些細なことで自分が愛されているという恵みに背を向けるのはもったいない、と私は思います。

受洗後 --教会生活と共に--

受洗前は主を見つめて一心不乱に走ってきた感じですが、洗礼を受けた後は教会と共に「人生」を歩んでる感じがします。まず毎週の礼拝での牧師の説教が素晴らしいから、主と出会えるから毎週教会に通うという大前提はあります。そして、各教会員の方のそれぞれの信仰に触れて気付かされることが多くあります。

高齢で自身の老いと向き合われている方、配偶者を亡くされた方、家庭を築く中で悩みを持つ方。これらは自分はまだ経験したこともないですし、大変な苦悩だと思います。そういった苦悩を抱えている又は受け入れるまでの、信仰と共に歩む過程があって、それを見せてもらえるだけで人の尊さを感じます。私もいつか、多分結婚して、必ず死ぬわけですが、そういったときの苦悩の支えを今、主が教会員を通して与えてくださっているかなぁと思います。

最後に

読み返してみると、私が素晴らしいクリスチャンな感じがしますが、そんなことは全くありません。悩んで泣いたりしています。教会に行きたくないと思うことも多々あります。でも、礼拝に出ると、やっぱり来て良かったと実感します。礼拝に来てほしい、説教を聞いてほしい、弓町本郷教会の素晴らしさを知って欲しい!と思います。

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