洗礼を受けて クリスチャン( 笹井あかねさん)より
私がクリスチャンになってから、つまり洗礼を受けてからもうすぐ5年になります。
5年の間いろいろなことがありましたが、つらいことがあると必ず「神さま、助けて」と祈っていました。
「祈れることがクリスチャンの特権よね!」という人がいましたが、私もそう思います。 ですから、受洗して本当に良かったと思っています。
もしクリスチャンでなかったら、私はどうなっていたのだろうかと想像するだけでも恐ろしく感じます。
もちろん洗礼を受けていなくても、祈ることはできます。ねがいがかなって「神さま、ありがとう」と言うこともできます。
でも、その「ありがとう」という気持ちを形にすること、神さまに示すことが洗礼を受けることなのではないかと思うのです。
差しのべられた神さまの手に、自分も手を伸ばして握手をする、そういったことが洗礼だと私は思っています。
家庭、親戚、友人など私の周りにはクリスチャンはいませんでしたが、教会の日曜日の礼拝に出るようになって私もこうありたいという人たちに出会い、そして私もイエスさまのぶどうの木につないでもらおうと決めました。
よく「特定の宗教の信徒になることに不安はなかったか」と聞かれますが、私の場合はまったくと言ってよいほどありませんでした。
直前は、「いいのかな?」と少し弱気になったり、不安になったりしましたが、それは未知のものにたいする漠然とした不安であって、洗礼に対する不安というものではなかったように思います。受洗後に困ったことも特にありません。
お墓についてもよく聞かれますが、代々続いているお墓もなさそうなので、教会の墓地に入れていただけるなら入りましょうかという感じです。
というよりも、今を生きるのに精いっぱいで、とても今お墓のことを考えることはできないというのが正直な気持ちです。
「先のことは神さまがお決めになっていると思うので、御心に従うまでであり、あまり深く悩まない」というのが私のスタイルでしょうか。これを世間では能天気というかもしれませんけれど。
以前、なんとなく聖書に興味があるけれど、洗礼は考えていない人たちと聖書を読む会をしていました。
「私にもそんなときがくるのかしらね」と言っていた人から、先日洗礼を受けたと聞きました。いろいろな人がいると思いますし、いて良いと思います。
「私にはまだ早すぎる」とか「今さらねえ」と考える人もいるかもしれません。
しかし、「洗礼は信仰のゴールではなく、スタート地点」です。これは私がアドバイスされたことですが、本当にそうだと思います。
「神さまに誓おう!」と思ったら、牧師先生に相談してみるとよいかもしれません。「迷っています」と言ってもいいと思います。
「神さま、どうしましょう?迷っています」と祈りの中で相談してみると、遅かれ早かれ必ずお返事が返ってきます。それがはじめの一歩だと思います。