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教会と洗礼と  クリスチャン( R.T さん)より

洗礼について(photo)

私が教会に行き始めてから、かれこれ10年になります。

私が育った環境は、教会とは縁のないものでした。家族はもちろん、友人にもクリスチャンはほとんどいませんでした。

子供のころから本を読むのが好きで、遠藤周作や三浦綾子、また西洋の、いわゆる純文学を読むことは多くありましたが、自分自身とキリスト教を結びつけたことはありませんでした。

聖書も少し読んだことはありましたが、あくまでも知識として、本を読む手助け程度に読んだだけでした。

そんな私が教会に行くようになったきっかけも、「なんとなく」でした。当時住んでいたのが弓町本郷教会の近くで、少し落ち込んでいるときにたまたま通りかかったのです。

何かの助けがほしいと思っていた時でした。一人で初めて礼拝に行くのに勇気が要るような気がしたので、誰かいないかとドアベルを鳴らしたところ、当時いらした松本先生が出ていらしたのでした。

そこで、先生に教会のことをいろいろと教えていただいて、次の日曜に初めて礼拝に行きました。たまたま教会の近くを通りかかったこと、たまたま先生が出ていらしたこと、それは、今でこそ、本当に神様のお導きだったのだと思います。

教会に行くようになって、キリスト教のいろいろなことを知るようになりました。また、先生方の説教を通して、神様が存在すること、イエスさまが私たちのために十字架につけられたこと、多くのことを知り、感じました。

ただ、洗礼というのはよくわかりませんでした。まだ教会に行き始めて間もない頃、だれかに「洗礼って何?」と尋ねたことがあります。その人はいろいろと説明してくれましたが、疑問は残りました。

洗礼を受けるため、クリスチャンになるためには具体的に、○○しなくてはならない、○○してはならない、ということがあるのではないかと思っていたのです。

でも、実際には違いました。神様を信じて、全てをゆだねること、その確信と勇気を持つこと、それが大切なのだとわかりました。勇気を持つこと、というのは適切ではないかもしれません。

でも、洗礼を受ける前の私にとっては、それは勇気が必要なことでした。神様を無条件に信じることは難しいことで、またイエス様の奇跡を信じることも難しいことでした。

そして、次第にそれが自然なことになってきました。それは、私たち人間全てのためにあることだというのがわかってきたからです。それを知ることによって、洗礼を受ける決心をすることができました。

私は大学で自然人類学を専攻していますが、大学の先生に「クリスチャンであることと、自然科学を研究することは、矛盾することではないか」と言われたことがあります。私はそうは思いません。

この世界を、自然を、私たち人類を作ったのは神様だからだと思うからです。無神論者であったアインシュタインは、「私はスピノザの神を信じる」と言ったそうです。

でも私は、物理法則を作ったスピノザの神もまた、私の信じる神様であったと思います。そして同時に、私たちを愛してくださる神様がいたからこそ、私たちが自然科学について知ることができるのだと思います。

人類学というと文化人類学を思い浮かべる方も多いとは思いますが、自然人類学も科学の世界では大きな位置を占めてきました。

自然人類学とは、一言でいえば「進化の産物としてのヒトを研究する」学問です。

骨からDNAまで、ヒトに関わる多くのことが研究されています。

私が現在研究を続けているのは「生物としてのヒトと多様な文化を担う存在としての人間との関係」に興味を持っているからです。

創世記とはシナリオは異なりますが、現在人類はおよそ二十万年前にアフリカで誕生し、進化しながら5〜6万年前に出アフリカを経て、世界中に分布拡大していったといわれています。しかしどのように進化して現在の人類になったのでしょう。進化に方向性はありません。チンバンジーが進化してもヒトにはならないのです。進化とは偶然の積み重ねといえるでしょう。ではその偶然は何によって導かれたのでしょうか。

ヒトから離れて、もっと広く宇宙について思いを馳せることもあります。多くの物理学者が「どのようにして宇宙ができたのか」ということについて多くの説を唱えています。

しかし定説はありません。

ダーウィンの進化論(これは未だ学校で教えることを禁じている地域もありますが)、コペルニクスの地動説などは、人間が「発見」したものですが、人間が発見する前から「存在」していました。その「存在」は誰が造ったのでしょうか。

人間がそれを知ることとはできないかもしれません。

全てを知っているのは神様だけかもしれません。でも私たちはその末端の部分を理解しようとすることができるのです。

今の私は、神様に出会うことができて、神様を信じることができて、幸せだと思います。

自分が罪を持っていることを知ったこと、しかしそれをイエスさまが負ってくださったことに深い感謝を覚えます。これからもその感謝の念を持ち続け、洗礼を受けようと決心した時のことを忘れずに、生活を送っていけたら、と思うのです。

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