『1Q84』を読み、現代を生きるキリスト教徒として思うこと

二俣 泉さんより

私は村上春樹ファンで、彼のほぼ全ての小説を読んできたが、彼の長編小説「1Q84」にはとりわけ魅了された。私はキリスト教徒だが、宗教の観点からみても、この小説はとても刺激的だ。

以下、現代を生きるキリスト教徒の一人として「1Q84」を読んで思ったことを述べようと思う。

村上春樹と“見えない世界”

「1Q84」は、通俗文学的な「仕掛け」(ハードボイルド小説、パラレル・ワールドもののSF小説、愛し合う男女が再会出来そうで出来ない「すれ違い」等々)を散りばめながら、人間と“見えない世界”の関係という「究極の問題」を真正面から取り扱っている。

“見えない世界”とは、超越的な次元、スピリチュアルな領域、人間が生きる意味・死ぬ意味にかかわる事柄、神にかかわる領域――すなわち宗教が取り扱う領域のこと。村上春樹は、長編小説の中で一貫して “現実世界と見えない世界との接点”を取り上げてきたが、作品ごとにさらに深くその世界を描くようになってきている。

そして、“見えない世界”を描く度合いが増すにしたがって、一読して納得できるような整合性を越えたストーリー展開がなされるようになってきた。そして「1Q84」において、作者はついに “見えない世界そのもの”を描こうとし始めたと思う。

「1Q84」に登場する宗教団体

この作品には、実在の宗教団体をヒントにしたと思われる2つの宗教集団が登場する。

一つは、一人の教祖が絶大なパワーを持つカルト宗教であり、もう一つは、キリスト教系の新興宗教である。

前者は、オウム真理教をもとに発想されているように思われるし、後者は、実在のキリスト教系の宗教(キリスト教の主流派からは異端視されているが、布教に大変熱心なグループ)がヒントになっていると思われる。ちなみに私個人は、この“キリスト教系の宗教”の信者たちを否定しようとは思わない。

私の知人にもこの宗教の信者がいるが、そこに属する多くの人たちはとても“真面目”だ。確かに、日本の多くのキリスト教徒は、自分も含めて“真面目”な人たちかもしれない(自分たちのことを“真面目”というのも憚られるが…)。

“真面目”と言えば、オウム真理教の信者たちも “真面目”だった。サリン事件に加担したのは、その“真面目さ”を極めた人たちだったのだ。

「1Q84」の主人公の女性は、“真面目な”宗教集団に深く傷つけられた経験があり、それらに対して強い憎しみを抱いている。しかし、それらの宗教集団が開く「見えない世界」への道筋を通して、彼女は最愛の男性と結びつくことになる。憎んでも、否定しても、人は「見えない世界」と無関係でいることはできない。

また、人生における深い満足や幸福は、「見えない世界」を通してしか達成されない――この小説は、それを示唆していると私には思えた。

宗教集団への懐疑

既存の様々な宗教集団は、「見えない世界」のことを扱っているようでいて、宗教集団という「見える世界」の人間関係にひどく束縛されたり、エゴイズムに囚われていたりすることは、よくある(にもかかわらず、当人は「見えない世界」に目を向けていると思っている)。しかしそれが、自分自身や周囲の人たちを傷つけ、その結果として、見えない世界から遠ざかってしまう(その極端な例がサリン事件かもしれない)。

宗教集団のこうした危険性に対する村上春樹の深い憂慮が、「1Q84」からは感じられる。キリスト教徒である私自身、宗教集団が陥りがちなこうした問題について、常に敏感である必要性を痛感する。

しかし村上春樹は、「見えない世界」を語る上で、既存の宗教集団を無視できないことも認めているように思える。「1Q84」では、既存の宗教への批判精神と、“宗教が(そして宗教の扱う「見えない世界」が)人間存在と切っても切れないもの”であることが同時に描かれていると、私は思う。

「本当の見えない世界」と「エゴイズム」との混同

“人間を豊かに生かす、本当の見えない世界”と、“見えない世界と見せかけた、人間のエゴイズム”とは混同しやすい。真面目に生きようとすればするほど、かえって、その「混同」に陥る危険性は高まるのかもしれない。

新約聖書におけるイエスの言葉の中には、そのことを憂慮していると思われるものがある。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネによる福音書5章39−40節)

これは言い換えれば、「あなたたちは、書かれたメニューの研究には余念がないが、肝心の料理は食べようとしない」ということだろう。ここで言われている聖書とは「旧約聖書」を示しているのだが、このイエスの言葉は、旧約聖書・新約聖書を問わず、“聖書への過大評価”への警鐘、ひいては“宗教集団という人間の集まり”への警鐘とも受け取れる。

イエスの言葉にある“聖書を研究している人”は、間違いなく“真面目な人”だ。しかし、その“真面目さ”こそが、本当のものから目を背けさせる元凶なのかもしれない。 

イエスは、既存の宗教集団に迎合したり、そこに絡めとられたりすることなく、神の愛の実践者として生きた。そのために、当時の宗教集団の基準で “超フマジメなトンデモナイ人”とみなされた結果、十字架刑で殺されることになった。

「“本当の見えない世界”と“エゴイズム”との混同」は、 イエスの生きた二千年前も、現代の日本でも、常に人間が陥りやすい「罠」なのだろう。

教会の中で、きちんと疑おう

生きている限り、「見えない世界」を避けたり、否定したり、無関係でいることはできない(人間は皆、死ぬことが確実である。「見えない世界」から目を背けている限り、虚無感や、死への恐怖からは逃れられない)。

ただ、「見えない世界」の重要性を深く感じながらも、既成の宗教集団に対して「どこか違う」と違和感を覚える人も少なくないだろう。教会に来て礼拝に参加したり、そこで語られるメッセージに触れたりした人の中でも、キリスト教に「危ないもの」、「居心地を悪くさせるもの」を感じる人もいる。

こうした感覚はとても健康的なものだと思う。そして私は、そういう違和感や懐疑を覚える人にこそ、伝えたいことがある。

私がキリスト教に惹かれるのは、イエスという人物が“懐疑を許容している”と思うからだ。新約聖書の中には、「見えない世界」への疑いを持つ人が何人も登場する。イエスは、そうした人たちとの対話を通じて「見えない世界」と人間との関係を説いていく。

もし、この文章を読んでいるあなたが「見えない世界」を深く考えたいと思って、キリスト教に興味を覚えているなら、教会に一度足を運んでみてはどうだろう? 来てみて、居心地がよければ通ってみればよい。もし「居心地が悪い」ものを感じたら、そして、もし教会で語られるメッセージに「疑い」を持ったら、その思いを教会にいる誰かにぶつけてみてもらいたい。

現代に生きる人が、真剣に「見えない世界」に向き合うためには、そこから目を逸らさずに“しっかり疑うこと”が重要だと強く思う。